お問い合わせメール
お問い合わせTEL
Read Article

テヘランの知られざる古代都市、シャフレレイを訪ねて(2)


レイの代表的な見所「シャーアブドルアズィームの聖廟」

レイの町の大きな見所の1つに、シャー・アブドルアズィームの聖廟があります。ここは、シーア派の巡礼地の1つでもあり、1955年にイランの国家遺産に指定されました。ここには、アッバース朝時代に生きていた、シャー・アブドルアズィームとして知られる人物が埋葬されています。この聖廟そのものが造られたのは、モンゴル系のイルハン朝時代とされ、その後サファヴィー朝時代には本堂の大掛かりな改修工事が加えられました。さらに、ガージャール朝の王、ナーセロッディン・シャーの命令で再び増改築が行なわれ、ドームの部分に金箔が施されました。このドームは16角形であり、その内部には鏡が敷き詰められています。ちなみに、この聖廟の敷地内には、ナーセロッディーン・シャーを初めとする数多くの著名人が葬られています。

ところで、この聖廟に埋葬されているアブドルアズィームという人物は、シーア派2代目イマームハサンの末裔とされています。彼は、当時のイスラム政権アッバース朝の支配者の圧迫から逃れるために、現在のイラク・サーメラーの町から、レイに移り住み、ここで一生を終えたということです。言い伝えによりますと、シャー・アブドルアズィームがレイの町にやって来た際、この町に住むシーア派イスラム教徒の1人がある日の夜、夢の中で預言者からある事実を告げられます。それによると、レイの町に今,預言者の末裔の1人が住んでいるが、彼は近々この世を去ることになっている。そして彼は、ある庭園に植えられているリンゴの木の側に葬られる、ということでした。このお告げを聞いたそのシーア派教徒は、すぐさまその庭園の持ち主のところに赴き、夢の中で預言者のお告げを聞いた経緯を説明し、この庭園を買い取りたいと申し入れます。すると、不思議なことにこの庭園の持ち主も、自分も同じような夢を見たので、預言者の末裔のために、この庭園を寄進したい、と申し出たということです。その後まもなく、シャー・アブドルアズィームはこの世を去りますが、彼の亡骸を運び出す際に、彼の衣服のポケットから1枚の紙切れが発見されます。この紙切れには、彼の出自について、次のように書かれていたということです。「私は、通称アボルガーセム、本名はアブドルアズィームである。父の名はアブドッラーで、その父はアリー、さらにその父はハサン、そのまた父はゼイド、そしてその父はシーア派2代目イマーム・ハサンである」こうして、預言者の末裔が葬られたことから、レイの町はシャー・アブドルアズィームの聖廟の町として知られることになりました。


有名な諺「シャーアブドルアズィームの外交儀礼」
ところで、この聖廟に因んだ有名な諺に、「シャー・アブドルアズィームの外交儀礼」というものがあります。これは、心の底からでなく、口先だけで好意を示す、実際には行なわれない親切、または価値のない好意を意味します。この聖廟はテヘラン市内からそれほど遠くないため、テヘラン市内からの巡礼者の多くは、夜この町に宿泊せずにテヘランに帰る人が殆どです。そのため、この町の人々が巡礼客に向かって「是非、私の家に留まっていってください」と勧めても、泊まっていくほどの距離ではないため、巡礼客にはこの勧誘は受け入れてもらえません。このことから、口先だけの外交儀礼を、「シャー・アブドルアズィームの外交儀礼」というようになった、ということです。

 

セルジューク朝時代の多目的タワー・トゥグリルタワー

次にご紹介するのは、セルジューク朝時代に造られたと言われる多目的タワー、トゥグリル・タワーです。この塔の高さは20メートルほどで、元々はこの町で逝去したセルジューク朝の支配者トゥグリル・ベグの墓廟として造られたものです。この塔には本来は円錐形の丸屋根があったとされていますが、現在は屋根がない状態となっています。この塔が造られた当時は、夜になるとこの塔の最上部に火を灯し、特にイラン東部のホラーサーン地方からやってくるシルクロードの旅人にとっての灯台のようなものとなっていたということです。さらに、このタワーの特徴として、表面に上から下まで24の凹凸があることが指摘できます。当時は、この凹凸に反射する日光の加減で時間を計測していたということです。即ち、日の出から1時間ごとに、このタワーの東側の凹凸から1つずつ、太陽の光に照らされていくため、この現象により時間を計測していたというものです。現在、このタワーではテヘラン市による改修工事が行なわれており、将来は文化センター、図書館、博物館、レストランなどの入った複合施設となることが予定されています。


ラシュカーンの城砦


レイの町には、もう1つの有名な見所として、ラシュカーンの城砦があります。この城砦は、およそ2300年前、即ちアルサケス朝時代のものとされ、当時はレイの町を防護する主要な城砦とされていました。そもそも、ラシュカーンという名称は、アルサケス朝の創始者・アルサケスを意味するペルシャ語、アラシュクという名前に由来します。この城砦からは、戦争に使われたと思われる古い武器などが発見されており、現在これらはイラン考古学博物館に収蔵されています。この城砦は、イスラム軍の侵略を受けた際に破壊されましたが、その後ガージャール朝のナーセロッディンシャーの娘であるファフロッドウレによる修復が行なわれたことから、この城砦はファフルアーバードとも呼ばれました。現在、この城砦の大部分は破壊されており、城砦の最上部のほか、全体のうちの西の部分と南の部分が僅かに残るのみとなっています。

ハールーン・アッラシードの監獄

それでは最後に、レイの町にあるイランのもう1つの国家遺産、ハールーン・アッラシードの監獄をご紹介することにいたしましょう。この監獄は、メスギャルアーバードの山ろくにあり、今からおよそ1100年前のブワイフ朝時代、或いはサーサーン朝からセルジューク朝時代のものと推定されています。高さは9メートル、全長と奥行きがおよそ30メートルほどの直方体で、火山岩とレンガ、漆喰による、地上階と地下室の2階建てとなっており、全ての部屋が独房になっています。独房の入り口はモスクに見られるようなアーチ型をしています。なお、この監獄は当初からこの名前で建設されており、現在もこの名前で呼ばれています。これは、8世紀から13世紀にかけて栄えたイスラム帝国・アッバース朝の全盛時代の支配者、ハールーン・アッラシードが、レイの町の出身であったことに因みます。なお、ハールーン・アッラシードの父親で、アッバース朝の3代目の支配者であったマフディーも、かつてはレイの町の支配者だったということです。


レイの町には、このほかにもバザールと呼ばれる昔ながらの商店街や、シャーアッバースの隊商宿、パフラヴィー朝の創始者レザー・シャーの墓、シーア3代目イマーム・ホサインの妻ビビ・シャフルバーヌーの聖廟など、まだまだ沢山の見所がありますが、これらについては、また別の機会に譲りたいと思います。

今後もまた、イランの見所を沢山ご紹介して参りたいと思います。どうぞ、お楽しみに。

 

Return Top