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イラン西部の世界遺産と名所旧跡めぐり(4)

 

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イラン西部の世界遺産と名所旧跡めぐり(4)

ケルマーンシャー州の世界遺産・ビーソトゥーンの碑文

サーサーン朝ペルシャ時代の遺跡・ターゲボスターンの石のレリーフ

先月までは、イラン西部のロレスターン州の見所を中心にお伝えしてまいりました。今回は、ロレスターン州に隣接し、また先だってのイラン・イラク地震で大きな被害を受けたケルマーンシャー州に視点を移し、これらの州にある大きな見所をご紹介することにいたしましょう。

ケルマーンシャー州のあらまし

ケルマーンシャー州は、イラン西部、かつイラクと国境を接しています。テヘランからは、陸路でおよそ500キロ強離れており、豊かな農業地帯であると同時に、石油、繊維産業、セメントの生産が盛んです。

州全体の総人口はおよそ200万人ほどで、14の行政区が存在し、中心都市は同名のケルマーンシャー市となっています。なお、ケルマーンシャーという名称の語尾に、国王を意味する「シャー」という言葉が含まれていることから、この州は1979年のイラン・イスラム革命後から1990年代までは、革命により追放された国王(シャー)という言葉を避けるために、バーフタラーン州と呼ばれていたということです。

この州の特に山岳地帯には、多数のクルド民族が暮らしていることから、州内では公用語のペルシャ語に加えてクルド語、ラキ語、さらには隣接するロレスターン州の方言であるロル語なども多く使用されています。

考古学調査での発掘作業などから、この州には旧石器時代から人が住んでいたことが判明しており、特に紀元前後のアケメネス朝からサーサーン朝時代に隆盛を極めました。伝説の王朝ピーシュダーディー朝の時代に、こ

こに都市が建設されたという説も存在しますが、本格的にケルマーンシャーが都市として建設されたのは、サーサーン朝時代だとされ、同王朝のホスロー1世の治世に特に栄えたと言われています。

また、1980年代のイラン・イラク戦争では、この州の多くの市町村が被害を受け、特にサレポレ・ザハーブや、イラクとの国境都市ガスレシーリーンなどは壊滅的な被害を受けました。

なお、ケルマーンシャー州ゆかりの著名人には、2007年にノーベル文学賞を受賞したイギリスの女流作家ドリス・メイ・レッシングがいます。彼女は、職を求めて当時のペルシャ帝国に移住していたイギリス人アルフレッドを父とし、ケルマーンシャーで出生しました。3歳のときにはテヘランに移り、5歳の時にイギリスに帰国しています。彼女の主な創作ジャンルは小説や詩、ノンフィクションで、デビュー作『草は歌っている』をはじめ、『黄金のノート』、『暮れなずむ女』などの作品は日本語にも翻訳されています。彼女は、2013年に94歳で没するまで、他にもサマーセット・モーム賞やオーストリア国家賞など、数々の賞を受賞しました。

ドリス・メイ・レッシング(1919-2013)

 

2017年11月12日にイラン西部を襲った大地震で、ケルマーンシャー州は大きな被害を受けました。しかし、この州にあるサーサーン朝の遺跡・ターゲボスターンと、世界遺産ビーソトゥーンの碑文は、幸いにも難

を免れています。この2つの遺跡も、今回の旅行の重要なポイントです。そこで、ロレスターン州ホッラマーバードの見学終了後、今度はそこから車で北西に向かうこととなりました。近隣のハメダーン州までは、もうだいぶ前に来たことがあるものの、ケルマーンシャー州は今回が初めてです。一体、何が待ち受けているのかとどきどきしながら、州境を越えてひたすら車で走っていると、ベージュ色の大きな岩山の連なりが見えてきました。

まずは、この岩山の表面に刻まれた世界遺産のビーソトゥーンの碑文を見学する事となりました。

 

ビーソトゥーン(ベビソトゥン)の碑文を初めとする遺跡群

ビーソトゥーンの碑文は、アケメネス朝ペルシャの王ダリウーシュ1世が、自らの即位の経緯とその正当性を説明した文章とレリーフの刻まれた、巨大な磨崖碑を主体とした遺跡群です。岩肌に刻まれた遺跡としては世界最大規模とされ、ケルマーンシャー市から東に30キロほど離れた、ハルスィーン行政区ビーソトゥーン市のビーソトゥーン山に位置しています。この地域はその昔、イラン高原をその西方にあるメソポタミア地域へとつなぐ、戦略的に重要な地域とされていました。

いざ到着してみると、見学者用の順路の入り口はこの岩山をそろそろ行き過ぎるかと思われる地点にありました。秋風が吹いているとはいえ、強い日差しが照りつける中、徒歩で見学ルートに向かいます。これは、2006年にユネスコの世界遺産にも登録されており、どうやら常に沢山の見学客が訪れているようです。

ビーソトゥーンとは、ペルシャ語で無柱を意味しており、実際に、この遺跡は断崖絶壁の岩壁に文字と浮き彫りのレリーフが刻まれた磨崖碑ということになります。ですが、紀元前のアケメネス朝時代、あるいはそれ以前には、当時の古代ペルシャ語で「神の宿る場所」を意味するバガスターネという名で呼ばれ、それ以後にはベヒスターン、バーグスターン、ボスターンなど様々な名称で呼ばれていたということです。それは、まだイスラム伝来前だった当時、この地がゾロアスター教の司祭たちにより、聖なる場所と信じられていたことによるものです。ちなみに、紀元前1世紀のギリシャの歴史書には、この地域を指すと思われるバガスターネンという地名が出てくるということです。さらに、イスラム以降のギリシャの地理学書をはじめ、英語をはじめとするヨーロッパ諸語の一部においても、この地名は中世ペルシャ語であるパフラヴィー語による発音バヒストゥンとされています。

ところで、この遺跡群の敷地内には複数の遺跡があり、それらの制作年代にはばらつきがあります。例えば、この遺跡の見学順路の最初に出てくるヘルクレスの像は、この像の背後に刻まれている古代ギリシャ語の碑文によれば、紀元前153年ごろのセレウコス朝末期からパルティア王朝のミトラダテス1世の治世の中盤期のものとされています。

この像は、今からおよそ60年ほど前、ケルマーンシャー州から隣接するハメダーン州への街道の建設工事中に、山腹で発見されました。また、今から16年ほど前には、この像の頭の部分が何者かに盗まれたものの、数年後に発見され、元通りに修復されたという経歴があるということです。また、ヘルクレスは当時、最も人気のあるギリシャ神の1人であったことから、石や泥などでこのギリシャ神の像が造られたケースが多く存在し、ビーソトゥーンにあるヘルクレスの像は、その代表例だということです。

さて、爽やかな秋晴れの空のもとに聳え立つこの像に近づいてよく見ると、2メートル強はありそうな石の台の上に濃いヒゲをたくわえ、頑丈な体つきの男性の裸像が1.5メートルほどにわたって横たわっています。この人物は、脚を半分伸ばしたような形で背後の岩によりかかり、左手には椀を持ち、右手を右足の膝に乗せた状態で、まっすぐ前を見つめています。

また、この人物の背後を良く見ると、ライオンのレリーフとともに、ギリシャ語らしき文字で7行ほどの文が刻まれています。地元の関係者によれば、この文にはパルティア朝との戦争でセレウコス朝側の司令官を救出したことが述べられているということです。

ヘルクレスの像の前に立つ筆者

狩人の洞穴

そして、この遺跡のメインとなるダリウーシュ1世の即位のレリーフに到達する前に、少々不思議な洞穴がありました。この洞穴はペルシャ語で「狩人の洞穴」と呼ばれています。

この穴の内部の総面積は35平方メートルあり、狩人たちが一時的に身を寄せる場所使用されていたほか、捉えた獲物をこの洞窟の中で切り裂き、食用肉として食べられるようにしていた可能性があるということです。さらに、狩りの際に彼らはここに隠れ、ここから獲物を狙っていたとも考えられています。それは、この洞窟は特に入り口が狭く、近づかなければ洞窟の入り口だと判別ができないことから、獲物に気づかれることなく、その動きを監視することができるようになっているからだとされています。

1949年に、アメリカの人類学者カールトン・スティーヴンス・クーン博士がこの洞窟にて、旧石器時代のものとされる多くの遺物を発掘しました。

カールトン・S・クーン(1904-1981)

そうした発掘品の中には、石器や動物の骨で作った道具、シカやレイヨウ、野牛などの動物の骨やネアンデルタール人の骨、アケメネス朝時代の陶器などがあります。特に、この洞窟で発見されたネアンデルタール人の前腕の骨は、中東のほかの地域やヨーロッパで見つかったネアンデルタール人のものと類似しており、このことは、イランでも特にこの地域をはじめとするザグロス山脈地帯にネアンデルタール人が住んでいたことを示すものです。

 

そしてついに、この遺跡群のメインをなす、アケメネス朝のダリウーシュ1世の姿を掘り込んだレリーフと碑文の前にやってきました。とはいえ、これは地上100メートルはあろうかと思われる高い場所にあります。

この碑文は、世界史上最も重要で有名な碑文であり、アケメネス朝時代のものとされています。このレリーフに刻まれているのは、アケメネス朝のダリウーシュ1世が政敵のグームーテに勝利し、反逆者を拘束している様子です。

それでは、もう少し詳しくこのレリーフに描かれている人物などについて説明することにいたしましょう。

まず、向かって左側から3番目の体格の大きい人物が、ダリウーシュ1世とされ、その右上にダリウーシュ1世と向かい合う形で、ゾロアスター教の神アフラ・マズダが描かれて、さらにその下に、反乱の指導者として囚われの身となった9人の捕虜たちが、互いに首をつながれた状態で立っています。これらの捕虜たちの頭の上には、それぞれの出身国名が書かれており、そのうちダリウーシュ大王に近い方の8名の名前と出身国は順にアーシナ(エラム王国)、ナディンタバイラ(バビロビア)、フラワルティ(メディア)、マルティア(エラム王国)、チサンタクマ(アサガルタ、現在のイラン南東部ケルマーン州に当たる地域)、ワフヤズダータ(ペルシャ)、アラカ(バビロニア)、フラーダ(マルギアナ)となっており、命乞いをしている彼らはいずれも裸足です。また、この8人は身長が126センチ、そして最後尾に立っている捕虜はイラン系の民族の1つ・サカ族の王スクンカで、かぶっている帽子の高さを入れて、178センチあります。また、ダリウーシュ1世はもう1人の捕虜グームーテ(ガウマタ)を踏みつけています。ガウマタは、不当に王位を奪ったメディア王国の神官です。さらに、アフラマズダは左手に光の輪を持ち、ダリウーシュ1世は左手に弓を持っており、この両者はいずれを右手を上げていますが、右手を上げるこの動作は、よいことを祈るしるしだとされています。一説によると、ダリウーシュ1世はこの動作により、自らがサーサーン朝の国教でもあったゾロアスター教の神アフラ・マズダであることを誇示しようとしていたと言われています。ダリウーシュ1世の背後には、射手と槍兵が控えており、この3人はいずれも丈の長い一様の服を着用し、一様の靴を履いています。ですが、ダリウーシュ1世のヘッドバンドの形は、背後の2人とは異なっており、また、あごひげの部分はあとから追加されたということです。

この碑文とレリーフは、地上から100メートル近い場所に作られています。しかし、地元の関係者の話によれば、その製作、彫刻の作業のためと思われる階段の痕跡のようなものが残存しており、碑文の下にわずかな足場らしいものがあることから、職人たちは作業のたびに、高い場所に上り、作業の終了後には作業用の階段を破壊して、レリーフや碑文が破壊されないようにしたということです。また、ダリウーシュ1世がこのような高所、難所にこのような碑文を製作させた目的は、当時の人々ではなく、未来の世代に自らの業績を伝えるためだったのではないか、と言われています。

 

高さ3m・幅 5.5m の浮き彫りの周辺に、この様子を物語る長い文章が、エラム語(かつてのペルシャ帝国の公用語で、現在は死語)、楔形文字による古代ペルシャ語、アッカド語(新バビロニア語)の3つの異なった言語で書かれており、現存する古代ペルシャ語の碑文の中でも最古のものとされています。

古代イラン人の象徴でもあり、太陽、アフラマズダの象徴でもある有翼光臨の王者

楔形文字

なお、この楔形文字の碑文には、ダリウーシュ1世が、「朕はダリウーシュ大王、諸王の中の王、ペルシャの王、諸国の王、ウィシュタースバの息子なり」と自らを名乗る文で始まり、自らの戦い、そしてアケメネス朝の王への即位に当たって彼が残した文言が述べられています。

また、ビーソトゥーンの碑文といえば、この楔形文字の解読に成功したイギリスの軍人で、東洋学者でもあったヘンリー・ローリンソンを忘れてはなりません。彼は、2年間に渡ってこの碑文の近郊に滞在し、険しい絶壁に何度もよじ登り、この碑文に刻まれている楔形文字を書き写してその解読に当たり、1847年にこれらの文字を研究した結果を発表しています。

ローリンソン(1810-1895)

 

この偉大なイギリス人東洋学者が、何年にもわたって高所をよじのぼり、そこに刻まれた文字を書き写して解読するという、非常に困難な作業をも厭わなかったのは、この遺跡に秘められた歴史的、考古学的なロマンへの憧れや、探求意欲があってこそのことでしょう。紀元前のはるか昔に、イラン高原にいかに高度な文明が栄えていたかを偲ばせる世界遺産への、貴重な訪問となりました。

 

サーサーン朝時代の遺跡ターゲ・ボスターン

今度は、ケルマーンシャー州の中心に当たるケルマーンシャー行政区に向かいました。ここにも、先のイラン・イラク地震の難を逃れたサーサーン朝の遺跡ターゲ・ボスターンがあります。これは、岩山に掘り込まれたアーチ型の岩窟の中に、何人もの人物の浮き彫りが彫刻されたものです。

 

まずは、遠くから全体を眺めて見ました。よく見ると、小さな岩窟の右上の大きな岩の形が、気のせいか右手を突き出し、羽の生えた怖い顔をした人物のように見えました。

また、この遺跡のすぐそばには、きれいな水の湧き出る泉があります。この泉は、数千年も前からこの地域の数千ヘクタールに上る農業用地を潤し、また地域住民の飲料水として使われてきたということです。

ターゲ・ボスターンの前に立つ筆者

地元の人々の間では、この遺跡はターゲ・ヴサーンと呼ばれています。この言葉は、分解すると、ターグ(アーチ)+エ(2つの名詞をつなぐ小詞)+ヴサーン(石で)となり、即ち石に彫られたアーチを意味します。

 

また、実際には2つのアーチ(岩窟)があり、向かって右側の大きな岩窟は6世紀から7世紀にかけてホスロー2世(在位590-628AD)により、左側の小さな岩窟は4世紀のシャープール3世により造営されました。

まずは、左側の大きな岩窟の上半分に注目してみました。

大きい方の岩窟(アーチ)は高さ12メートル、幅がおよそ8メートル、奥行きが7.5メートルほどとのことです。このアーチで真っ先に目に付いたのが、奥の壁に掘り込まれている3人の人物のレリーフでした。

中央の人物はホスロー2世、その右はゾロアスター教の最高神アフラ・マズダ、そして向かって左にいるのは、ペルシャ神話に登場するゾロアスター教の女神で、川や水を司る水の神とされるアナーヒターです。特にこの大岩窟に彫刻されているこれらのレリーフは、サーサーン朝時代の人々の服飾や装飾品の研究の一助となっていることから、非常に重要なものとされています。

そして、このアーチの下の段には、手に長い槍を持ち、馬に乗った人物のレリーフがありますが、一部の学者によれば、これは馬に乗ったホスロー2世ではないかとされています。

 

向かって右側の壁には、およそ4メートルX6メートルのスペースに、王のシカ狩りの様子を描いた浮き彫りがあります。この浮き彫りは、鹿の群れを王のほうに向かって追いかける様子とともに、馬に乗った王の背後から、王に傘を差しかけている女性の姿、また王の背後には3列に並んだ、王に敬礼する女性や楽器を奏でる女性たちなどを描いています。また、左側には狩りで捉えた鹿を運ぶラクダの姿があります。

一方、左側の壁には、全体の左側の部分に12頭の象が5列に描かれ、それぞれの象に2人の人が乗り、イノシシを隠れ場所から草むらに追い出している光景が、上の部分には5人乗りの小さな船を船頭たちが漕いでいるところが描かれています。船の中には、王が立っており、その周りを音楽を奏でる女性たちが取り巻いています。また、下の部分には、5頭の像に乗った騎手たちが、象の鼻でイノシシを追いかけている光景が見られます。

そして、アーチの脇には見事な天使の浮き彫りがあります。

こちらの装飾もまた見事です。これは植物をあしらった模様でしょうか。

このアーチの左側の壁の上部にはさらに、ガージャール朝のモハンマド・アリー・ミールザーシャー(ファトフアリーシャーの息子)が装飾のついた冠をかぶり、座っている光景が描かれています(右から2人目の人物)。彼の右に控えているのは、ガージャール朝の名士でモハンマドアリー・ドウラトシャーの6番目の息子のエマードッドウレで、左に控えているのは息子のモハンマド・ホセイン・ミールザー、さらにその左にはガージャール朝の宰相アーガー・ガニーがいます。

また、この浮き彫りに描かれている4人の人物の頭上のアーチの部分には、ナスタアリーク体というペルシャ書道の書体の1つにより、碑文が刻まれています。特に、左側のアーチのふちに刻まれている内容は、シーア派3代目イマーム・ホサインの追悼行事にかかる費用を寄付するようにとのことだそうです。ちなみにこのレリーフは、ガージャール朝時代に彫刻されたものだということです。

そして、今度は小さなアーチに注目してみました。こちらのほうが、大きなアーチの部分よりも比較的保存状態がよく、また先ほどの大きなアーチよりも幾分前に突き出ています。このアーチは高さ6メートル、幅5メートル、奥行きは3.5メートルほどです。

このレリーフに並んで描かれているのは、シャープール3世とその父親のシャープール2世の全身像です。彼らのいずれも、右手を剣の柄の上に乗せ、左手でその下を握っています。シャープール2世のほうは、ギザギザのある装飾を施した冠に耳飾や首飾りを身につけています。また2人とも、丈が膝まである上着を着用し、太いズボンを履いています。さらに、このレリーフのそばに中世ペルシャ語であるパフラヴィー語による碑文も残されており、シャープール2世に関するものは9行、シャープール3世に関するものは13行にわたります。

さて、小さなアーチから少々右に離れた岩の表面には、さらにアルダシール2世が王権を真珠される様子を描いたレリーフがあります。

このレリーフには3人の人物が並んで描かれており、中央に描かれているのがアルダシール2世です。このレリーフに見るアルダシール2世は、目が大きく、眉毛がつながっていて濃いひげを生やし、真珠の首飾りと腕輪を身につけ、折り目のある膝丈の上着を着て、長いズボンを履いています。また、装飾を凝らしたベルトを締め、剣を下げているのがわかります。彼の左にいるのは、ハスの花に乗った情愛のミトラ神で、頭部の周りに後光が差しています。また、右側に描かれているのはアフラ・マズダで、リボンのついた輪をアルダシール2世に授けています。そして、アフラ・マズダとアルダシール2世の足の下には、サーサーン朝に破れた敵が踏まれているところが描かれています。これについては諸説がありますが、多くの学者の間では、この敵とはおそらく紀元362年にアルダシール2世自身によって殺された、ローマ帝国の王ヴァレリアヌスではないかと言われています。

 

見学を終えてこの遺跡を後にするころには、すっかり夜になっていました。暗闇にライトアップされたターゲ・ボスターンもとても印象的でした。

サーサーン朝時代から1700年近い年月が去った現在でも、巨大な岩窟に刻まれたレリーフは、当時の王朝時代の隆盛やゾロアスター教信仰を静かに物語っているようでした。

紀元前の時代とサーサーン朝時代にイラン高原に栄えた高度な文明の余韻を味わいつつ、ケルマーンシャー州に別れを告げました。

イラン西部には、このほかにもまだまだたくさんの見所が存在しますが、それらについてはまた別の機会に譲りたいと思います。

次回もどうぞ、お楽しみに。

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