偉大なペルシャ詩人サアディーの命日に寄せて

 

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去る4月21日は、13世紀のイランの偉大な詩人サアディーの命日でした。サアディーの語った内容は、世界各地に伝わっています。サアディーの死後数百年が経過した現在も、その影響は決して減少することはなく、ペルシャ語とペルシャ文学が存続する限り、サアディーの名声は必ず残ると思われます。サアディーが全世界で知られていることから、今回は、この偉大な詩人の生涯を振り返り、世界の人々に人気がある秘密を探ってみることにいたしましょう。

中世イランの著名な詩人サアディーは、イラン南部ファールス州の中心都市シーラーズで生まれ、イラクのバグダッドなどでアラビア語学やイスラム学などを修めました。彼はその後、長年にわたって、中央アジアやインドはもとより、アラビア半島、そしてエジプトやモロッコなどの北アフリカまでをも旅しました。シーラーズに戻ってから、サアディーは本格的に詩作をはじめ、彼の最も著名な著作の1つであるゴレスタン・『薔薇園』は、散文と詩を織り交ぜた形式のもので、彼が70歳を過ぎてからの作品とされています。

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サアディーに対する現代のイラン人学者の見解

ペルシャ文学の傑作の大部分は、外国語に翻訳されていますが、そのいずれもサアディーの著作である『薔薇園』や『果樹園』ほどには、西側の人々に注目されていないのではないでしょうか。現代イランの研究者で翻訳家でもある、ジャラール・サッターリー博士は次のように述べています。

「ペルシャ語は、直喩と隠喩、そして文学的な表現が混ぜ合わされている。ヨーロッパ諸語は、決してこのようなものではなく、装飾語が少なくなっている。ヨーロッパ諸語の読者は、イラン人以上に平易な言葉で書かれたものを読むことに慣れている。サアディーも、各地を旅し様々な民族や文化に触れたことから、同時代の人々とは違って、装飾語のない簡潔な言葉を使っている。このため、サアディーの作品の外国語への翻訳版を読むことは、決して困難で耐え難いものではない。だが、サアディーの作品が世界に広まり、サアディーが権威ある存在とされていることは、決してそこに使われている言葉が滑らかで平易であることだけが理由ではない。サアディーの作品が世界に広まっている秘密は、サアディーが友愛に基づいた、価値ある優れた英知を教える人物だったことにある。実際に、ほかの何よりも西洋人の心を捉え、魅了したのはサアディーの倫理的な教えであり、それには博愛の精神や人間性、人間としての尊厳を重んじようとすること以外の動機はない。サアディーの思想は、西洋人の評論家の思想と非常によく似ており、その言葉は西洋でも、世代から世代へと語り伝えられている。このため、サアディーが人類の宝としての世界的な詩人であるといっても、決して過言ではない」
初めて西洋諸語に翻訳、抜粋されたサアディーの『薔薇園』

1634年に、(アジアの詩人の作品として)西洋で初めてヨーロッパ諸語に翻訳されたのは、サアディーの作品でした。まず、アンドレ・ドゥリエがサアディーの『薔薇園』を、フランス語に翻訳しています。この翻訳版は、不完全な部分もありましたが、これは最初の一歩とされています。その1年後には、このフランス語訳を基に、サアディーの詩集『薔薇園』がドイツ語に翻訳され、次いでラテン語と英語に翻訳されました。17世紀のフランスでは、政府に対する直接の批判が許されていなかったため、この詩集『薔薇園』を利用することで、国王に対して進言する道が開かれたのです。フランスの作家ラ・フォンテーヌは、1694年に2番目の寓話集を出版し、この道の先駆者となりました。

サアディーの詩集『薔薇園』には、「善良な人が夢を見た。そこでは、国王が天国におり、敬虔な人が地獄にいた」という文章が出てきますが、この文はラ・フォンテーヌの作品『あるモンゴル人の夢』の中にも、次のように記されています。

「あるモンゴル人が夢を見た。その夢とは、天国で大臣が尽きることのない楽しみを味わっており、その一方で敬虔な人が炎にまかれて苦しんでいる光景を目にしていた。その様子は、最も不幸な人たちでさえ同情するほどのものだった」

17世紀に、サアディーの詩の一部がこのように抜粋して使われていることは、ラ・フォンテーヌやその他の作家の作品にも、非常に多く見られます。
サアディーからインスピレーションを受けた西洋の作家たち

18世紀のフォルテは、哲学的な物語の創始者とされています。それは、彼以前の時代にはヨーロッパでは哲学的な物語が制作されていなかったことによります。フォルテによる説話には、サアディーの説話が含まれています。そもそも、ヨーロッパで新しい文学のジャンルが生まれたのは、サアディーがきっかけだったのです。その例として、ドイツの東洋学者リュッケルトは、イランの詩人モウラヴィーの影響を受け、ドイツやヨーロッパの文学に抒情詩のジャンルを設けました。さらに、フランスの作家ビクトル・ユーゴーとドイツの詩人ゲーテという、ヨーロッパの2人の文豪はいずれも、サアディーからインスピレーションを受けているのです。
ビクトル・ユーゴーは、次のように述べています。

「秋風すらも、そのページを破ることができず、どれほど時代が下っても、その春の美しさが冬の冷たさに変わることのない、『薔薇園』という作品を書けるようにするためには、どうしたらよいだろうか」

又、フランスの詩人モーリス・バレスも、サアディーの影響を受けており、次のように述べています。

「私は今なお、赤いバラを愛している。それは、(サアディーの故郷である)シーラーズの町から来たからである」

また、アンドレ・ジッドもサアディーについて知っており、その影響を受けています。彼の著作の1つである『地の糧』は、イランの抒情詩人ハーフェズの詩で始まり、サアディーの詩で終わっています。さらに、ジッドはサアディーの『薔薇園』に倣って、著作『地の糧』を8つの章に分けているのです。

ドイツの思想家フリードリッヒ・ローゼンは、1921年に『対人行動のガイド』という著作を発表しましたが、この著作には、サアディーの名著『薔薇園』の8つの章に加えて、サアディーの他の複数の作品が含まれています。また、1967年に、スイスの研究者ルドルフ・ゲルプケは、『101の薔薇園の物語』というタイトルで、サアディーの詩集『薔薇園』の精選集を出版し、これを『アジアにおける生活芸術の祈祷書』と名づけました。ゲルプケは、サアディーの『薔薇園』をドイツ語に翻訳した他、説話の内容をドイツ語で著しています。

ゲーテも感銘を受けたサアディー

ドイツの詩人ゲーテは、1792年以降ペルシャ文学に出会いましたが、それはサアディーの詩集『薔薇園』のヘルダーによる翻訳版を研究してからのことです。彼は、『薔薇園』を研究してからペルシャ文学に心惹かれるようになりました。その後、1814年にはやはりペルシャ詩人ハーフェズの詩集を研究することにより、ゲーテはペルシャ文学にこれ以上ないほどに陶酔し、「西東詩集』という作品の執筆に着手しました。彼は、この作品の多くの句の中で、サアディーの高潔な思想、特に『薔薇園』の要点を抜粋して述べています。

 

サアディーに対するアメリカの思想家エマーソンの見解

19世紀のアメリカの思想家エマーソンは、次のように述べています。

「サアディーは、世界の全ての民族の言葉で語り、その語った内容はホメロスやシェイクスピア、セルバンテス、モンテーニュのように常に新鮮味がある」

エマーソンはまた、著作の中で、サアディーの詩集『薔薇園』を新約聖書のような世界的な宗教書の1つと見なしており、『薔薇園』の道徳的な教示は一般的で国際的な法律であると考えています。

 

西洋の文人と類似点を持つサアディー

サアディーの語った事柄とその思想は、多くの事例においてヨーロッパの作家や詩人の語った内容と似ており、これは実に驚くべきものです。このことから、サアディーは世界各地で受け入れられており、フランスの思想家エルンスト・ルナンは、サアディーはあたかもヨーロッパ人の作家のように思われる、と述べています。まさにこのことから、ヨーロッパ人の作家は非常に古くから、サアディーの作品の一部に対して興味を示しているのです。エルンスト・ルナンは、これについて次のように述べています。

「サアディーの健全で損なわれることのない英知、彼の言葉に魂を吹き込む繊細さや思想、そしてやんわりと冗談めかして人間の世界の逸脱や欠点をついていること、こうした全ての良さから、サアディーは私達の目にとても親しみある存在として映っている」また、フランスの翻訳家ガルサン・ド・タッシーは、次のように述べています。

「サアディーは、ヨーロッパの人々の間で名声を博している、唯一のイラン人作家である」

また、バルビエ・ド・メナールも次のように語っています。

「ヨーロッパでサアディーが権威ある存在とされているのは、『薔薇園』の中のサアディーが、まさに新しい美学の求める全ての特性や恩恵の全ての集合体だからである。歪められることのない、健全なサアディーのセンス、彼の精神的な話の魅力と美しさ、人間社会の欠陥や堕落を嘲笑する、風刺的な語り口、これらは全て、サアディーと同時代に生きていた他の作家にはあまり見られない特長である。そして、まさにこうした美徳を備えているからこそ、サアディーは完全に私達の間で賞賛と尊敬の的になっているのである」

様々な文化に対するサアディーの影響
サアディーは、イランの文化とペルシャ語の象徴であり、多くのサアディー研究家の間で文化的に共通した人物と見なされています。サアディーは、多くの世界を見てきた人物であり、西はイスラム世界の東西を旅しており、様々な人々や文化に触れていました。彼は、現在の中央アジアに当たる、トルキスタンという地域から、インド亜大陸、さらには北アフリカにまで足を運んでいます。サアディーは、外国の文化から豊富な知識と経験を獲得し、それらを特に『バラ園』を初めとする著作に盛り込んでいることから、多くの人々の注目を集めています。彼は、インド亜大陸、ヨーロッパの文化、トルコ文化、アラブ文化にも入り込んでいたのです。インドでは、ハサン・デフラヴィーのように特に雄弁さで有名な人物に、インドのサアディーといった称号をつけることが習慣になっていました。サアディの影響力は、一般大衆や遠くの国にまで及んでいました。イスラム史で有名な旅行家イブン・バトゥータは、旅行記の中で、次のように述べています。

「私は、中国西部を旅した時に、船をこぐ船頭がペルシャ語でサアディーの詩を口ずさんでいるのを目にした。これはまさに、サアディーがアジアの文化に入り込んでいることを示すものである」

現在、サアディーの霊廟は、イラン南部ファールス州の町シーラーズの郊外にあり、ペルセポリスと並んでこの町の観光名所の1つとなっています。サアディーは、故郷シーラーズをこよなく愛し、1291年にこの近郊で生涯を終えました。しかし、サアディーをその死後も世界の人々の間で人気のある存在にしているものは、彼の美しい語り口と深い理解力であり、彼は学識溢れる詩人かつ哲学者として、イスラムの教えに基づく人間像と人間性を提示している、ということです。サアディーの言葉は、人間の本性にかなうものであり、現代の文学評論家は個人や社会の期待にこたえる文こそが、読者に歓迎されると考えています。現代世界は、サアディーを必要としており、それは複数の文化や文明間の交流が必要とされ、サアディーとその作品がこのニーズに見事に応えるものだからなのです。
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それでは最後に、サアディーの名作『薔薇園』の中の有名な詩の1篇をご紹介し、締めくくりといたします。

人類は、相互に関わりあい、

一つの宝石から創造されている。

一人が苦しめば、

他も穏やかではいられない

もし人が、他人の苦しみを感じないなら

その人をもはや人間と呼ぶことはできない

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