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数千年の歴史を誇るイランには、イスファハーン、ペルセポリス、レイ、タブリーズなど、古くからの都が数多く存在します。皆様もこれまでに、アケメネス朝、サーサーン朝、サファヴィー朝、ガージャール朝など、イランの歴代王朝の名前を耳にされたことがあるかと思います。そうした中でも、テヘラン南西部に隣接した、イラン中部マルキャズィー州には、サーヴェと呼ばれる行政区があり、この町はサーサーン朝時代からの古代都市とされています。この町には知られざる名所がいくつも存在しており、今回はこの行政区にある見所をご案内してまいります。
サーヴェ行政区の概要
それではまず、今回行ってまいりましたサーヴェ行政区についてご紹介することにいたしましょう。この行政区は、イラン中部マルキャズィー州を構成する12の行政区の1つで、テヘランからはおよそ110キロ離れており、この州の中心都市はアラーク行政区に置かれています。サーヴェ行政区の現在の人口は、およそ20万人ほどで、ザクロとメロンの生産地としても知られています。気候区分の点では、年間降水量がおよそ200ミリメートルほどの準乾燥地帯に区分され、内陸に位置していることから、夏と冬の気温の差が大きくなっています。サーヴェという名前のもともとの意味は、一説によりますとペルシャ語で黄金のかけらを意味するということです。また、この行政区の北に隣接するザランディーエという行政区も、ペルシャ語で黄金を意味する言葉からきていますが、これはその昔この地域に金山があったことに由来しています。又、この地域ではペルシャ語や地元の方言のほか、一部の人々の間ではトルコ語も使用されています。サーヴェは、サーサーン朝時代からイランの古代都市の1つとされており、イスラム伝来後はシーア派の拠点の1つとなりました。さらに、この町にはかつて、大きな湖が存在していましたが、イスラムの預言者ムハンマドの生誕とともに、枯渇してしまったといわれています。
さて、テヘラン市内を抜けて、南西に伸びる街道を車で走ることおよそ1時間、テヘランでは多く見られた緑化地帯が減り、当たりは次第に背の低い植物がところどころに生えているステップ草原に変わってきました。さらに進んでいくと、岩山や赤土のみの荒涼とした風景に変わり、その中に大きな工業地帯が見えてきました。ここは、イランでも有数の工業地帯といわれ、セメント工場や食品加工の工場を初めとする多数の工場が集まっているということです。そこからさらに街道を進み、住宅が数多く立ち並ぶサーヴェの行政区に入りました。車窓を眺めていて特に目を引いたのは、街路樹としてユーカリの木が沢山植えられていることでした。サーヴェ市役所の関係者の話によりますと、ユーカリの木は年間降水量が比較的少ない乾燥地帯でもよく育ち、しかも氷点下10度くらいまでの寒さに耐えられることなどから、この地域では街路樹として、また公園などに植えられているということです。
大モスクの見学
今回最初に見学したのは、サーヴェ行政区の最も南にある大モスクでした。このモスクは、イラン国内にあるモスクの中で最も古いモスクの1つとされています。最近行われた調査から、この場所には現在の建物が出来る前にさらに古いモスクが存在しており、現在の建物の建築資材には、その前にここにあったモスクの資材が使われていることが判明しています。また、ここに残されている碑文などから、研究者の間では現在の建物は最低1000年の歴史を有すると考えられています。この地域が軍事的、戦略的な場所であることから、このモスクは当初はこの地域の入り口の門の1つの近辺に建設され、特に10世紀から11世紀にかけてのブワイフ朝時代、そしてその後のセルジューク朝時代には、モスクとしてのみならず、貯水池やバザール、隊商宿などが併設され、1つの集合施設として使われていたということです。
さて、いざモスクの前に降り立ってみると、日干し煉瓦と泥土で作られたと思しきベージュ色の壁と建物が目に入りました。イランのモスクでお馴染みの、青の化粧タイルを基調としたドームが1つあるほか、いくつものアーチが見られます。さすがに、元集合施設だったとあって、敷地面積は相当に広いようで、日干し煉瓦で出来た壁が数百メートルにわたって続いています。青い化粧タイルの施されたドームの下が入り口になっており、ここから敷地内に入ります。
玄関口の上の部分にはステンドグラスのようなものがはめられ、大きな木製の扉が開けられており、広い境内が見えました。
境内の真ん中には、八角形の池があり、境内を取り囲むようにアーチのある壁の建物が続いています。このモスクもほかの大規模なモスクと同様に、シャベスターンと呼ばれる礼拝室や、メッカの方向を示す壁がんが設けられていますが、特にこの壁がんには漆喰により、絨毯の図柄などによく見られる唐草模様が施され、独特のアラビア文字の書体により、アッラー、モハンマド、アリーという文字も刻まれていました。
それから、このモスクの大きな特徴の1つは、北東部の一角に高さ14メートルのミナレットがあることです。もともと2本あったこのミナレットは、現在では1本しかなく、また今から1000年ほど前のセルジューク朝時代に造られたとされています。見たところ、このミナレットはレンガで作られており、カラフルな化粧タイルなどは一切施されていませんでした。しかし、レンガを巧みに組み合わせていくつもの幾何学模様のような図柄ができており、遠くから見ても非常に壮観でした。
アッバース大王の隊商宿
次にご紹介するのは、アッバース大王の隊商宿です。この隊商宿は、サファヴィー朝のアッバース1世の時代、即ち今から400年以上前に立てられました。イランは、陸続きで数多くの国と隣接し、東西を結ぶシルクロードの要衝に位置していることもあり、特にアッバース1世の治世にはイラン領内に数多くの隊商宿が設けられ、この隊商宿もその1つです。なお、サーヴェの北方にあるヴァルデという村に立てられていることから、ヴァルデの隊商宿という別名もあります。
この隊商宿の敷地全体は、50メートル四方の形状になっており、北側にアーチ型の出入り口の門のほか、8つのアーチが設けられています。建物全体には、主にレンガが素材として使われていました。さて、いざ敷地内に足を踏み入れてみます。東西、そして南側にそれぞれ、7つのレンガ造りのアーチが連なっており、いずれも中央に少々大きいアーチがあり、これらの大きなアーチが内部への入り口になっています。
その大きなアーチから中に入ると、レンガの欠けた部分から少々光が入ってきており、実際に旅人が寝泊りしたと推定されるスペース、馬やラクダをつないでいた場所らしいスペースがありました。
ちなみに残りの小さなアーチにはそれぞれ、壁にくぼみがあり、ここにはレンガの焼け焦げた跡があったことから、おそらく見張り番が火をたく場所だったのではないかと思いました。
南側の建物に近づいてみると、面白いことに中央のアーチの両側には段差の大きい階段があり、屋上に出られる仕組みになっているようです。思わず好奇心に駆られ、上ってみることにしました。
どうやら、この建物全体は2つの階に分かれているようで、広さもかなりのものです。ふと見上げると、この入り口の屋根がドームになっていることがわかり、レンガの絶妙な組み合わせにより、ドームの内部がイスラム式の建築特有の造りになっています。
この階にもいくつもの部屋があり、大勢の旅人が泊まっていた様子が伺えました。
ここからさらに先ほどの階段を上り、屋上へと上がってみます。ちょうどこのとき、西日がさしており、レンガ造りのこの隊商宿全体が夕日に照らされて、オレンジ色に輝き、非常に美しく見えました。
チャハールスークのドーム
さて、今度はサーヴェの市街地にあるチャハールスークのドームを訪れました。このドームも、サファヴィー朝時代に建てられており、イランの国家遺産に指定されています。チャハール・スークという名称はもともと、4つのバザールを意味し、かつてはこのドームの四方にバザールがあったことに由来しています。このドームは、2007年8月14日から、国際手工芸デーにちなみ、サーヴェ民族学博物館として使用されるようになりました。ドームの直径、そして地面からドームの最上部までの高さはそれぞれ14メートルに及び、ドームの内部を見上げると、円形を基準とした幾何学的な造りになっています。
ここには、イスラムが伝来してからの様々な時代の碑文や手書きの写本、銅製の器や陶器、貨幣、今から200年ほど前のガージャール朝時代の墓石のほか、相当古いと思われる扉の鍵までが展示されていました。さらには、当時の民族衣装の見本のほか、サファヴィー朝時代にこの町に存在していたとされる、かなり精密なダムの模型もありました。
次回は、今回の旅行のメインテーマである、ギズガルエの城砦を中心にお届けいたします。どうぞ、お楽しみに。