イラン各地におけるイスラム教シーア派の追悼行事

イラン中部ヤズド州での独特の御輿によるアーシュラーの追悼行事の様子

テヘラン市内を練り歩くアーシュラーの行列

イランでは、今月の19日と20日の2日間にわたり、イスラム教シーア派教徒にとって最大の追悼行事・アーシュラーが実施されました。アーシュラーとは、アラビア語で10を意味し、これはイスラム暦モハッラム月10日をさしています。今年は、9月20日がこのアーシュラーの日に当たり、その前日はイスラム暦モハッラム月9日にあたるタースーアー(アラビア語で9の意味)と呼ばれます。

西暦680年にあたるイスラム暦モハッラム月10日、現在のイラク南部の町カルバラーにて、シーア派3代目イマーム・ホセインは、当時のウマイヤ朝の暴君ヤズィードの軍勢を相手に、戦力面で完全に不利な状態でありながらも果敢に戦い、この不平等な戦争で自らに従う教友や近親者らとともに、非業の死を遂げました。

イラク・カルバラーで非業の死を遂げたシーア派3代目イマーム・ホセイン(A.D.625-680)

 

アーシュラーの追悼行事は、このイマーム・ホセインの殉教を悼む目的で毎年実施されます。今回は、国際情勢が緊迫化する中、さらに厳しい状況に置かれつつあるイランで全国一斉に実施されたこの行事の様子をお伝えしてまいります。

 

まずは、このシーズン中のテヘランでの一般的な様子からご紹介しましょう。

毎年イスラム暦のモハッラム月が近づいてくると、街頭をはじめ、企業や官公庁、店舗などは周囲に、黒地に赤や緑、白などでイマームホセインの追悼の文句やコーランの章句を書いた布や横断幕、旗を取り付けます。こうした装飾・準備作業は大体、アーシュラーの10日くらい前から始まります。

まずは、骨組みを組みたて、それから装飾用の生地をとりつけます。

 

モハッラム月用の黒地の装飾を取り付けた商店の例

 

路地に面した建物も装飾され、追悼ムード一色です。

 

市内でも車両や人々の往来の多い広場は、小さな黒い旗がたくさん取り付けられています。

 

そしてもちろん、モスクをはじめ、ホセイニーエやテキエなどと呼ばれる宗教施設内も、丹念な装飾が施されます。そして、こうした宗教施設内では、特に夜間にヘイアトと呼ばれる追悼の集いの場が設けられる事が多くなっています。

 

幟のようなものが沢山立っているところもありました。

 

さて、こうして入念な準備の後、いざモハッラム月10日を迎えることになります。その前日のモハッラム月9日はイマーム・ホセインが、イラク・カルバラでのヤズィード軍の戦いで負傷した日で、タースーアーと呼ばれ、その翌日の10日がイマーム・ホセインの殉教日・アーシュラーとされ、この2日間は学校や官公庁、企業も全て休業となります。

この2日間、特にアーシュラーの日は、朝から街中や街頭、路地などで、黒いシャツとズボンを身につけ、大太鼓を打ち鳴らす人、胸や頭を手で叩く、スィーネザニーと呼ばれる動作をする人、あるいは、鎖の束で体を叩くザンジールザニーと呼ばれる動作をする多くの人々が、行列をなして「ヤー、ホセイン(おお、ホセインよ)!」などと一斉に叫びながら街中を練り歩きます。こうした行列は、ペルシャ語でダステと呼ばれます。なお、胸や頭を叩いたり、鎖の束で体を打ちながら練り歩くのは、たいていは男性です。

鎖の束を体に打ち付けるザンジルザニーの様子。

 

胸を手で叩くスィーネザニーの様子。

 

 

頭を叩きながら歩く男性

 

追悼の行列を調子付かせるのに、大太鼓や小太鼓は欠かせません。まずは大太鼓がドンと鳴らされてから、後を追うように小太鼓の連続音が続きます。

さらに、イマーム・ホセインの殉教の様子や、この偉人への敬慕の念、追悼の意を表現する挽歌や哀歌などの朗誦者も、スピーカーで朗誦しながら、ゆっくりと行列にしたがって進みます。

 

アラビア語で、イマームホセインよ、と叫ぶのみならず、この文句の書かれた大きな旗を掲げる人もいました。

 

そして、この追悼行事のもう1つの特徴は、日本の祭りの御輿や山車に相当すると思われる、この儀式独自の大型の山車が登場する事です。デザインや形状は、それぞれの行列、地域によって少しずつ異なるものの、一般的に横幅が広く、鳥の羽やアラビア語の文句を刻んだ黒い布の装飾が沢山つけられています。

 

延々と続く大通りの行列。毎年2月11日のイスラム革命記念日の行進と同様に、相当数の人々が参加しています。

 

そしてもちろん、男性のみならず、女性たちも積極的にこの追悼の行進に参加しています。一般的には、男性の集団の行列の後に、女性の行列が続くようです。黒いチャードルをまとった女性たちが大勢集まって、街中を練り歩く様子は、独特の雰囲気をかもし出しています。

 

後ろから見た行列の様子。男性の行列の後ろに、女性の列が続いています。

 

また、行列をなして練り歩くのみならず、このイベントでは礼拝も欠かせません。以下の写真は、アーシュラーの日の正午の礼拝の様子です。追悼行事に使われる山車のそばで礼拝します。

 

親子でこの追悼の行列に加わる人々も、決して少なくありません。母親が、抱っこしている幼児の頭にイマーム・ホサインの象徴である緑のハチマキをしめさせ、この偉人への追悼の気持ちを表現しています。

 

「僕は、勇敢なイマーム・ホセインだ」と、緑色の装束をまとって、この偉人への思いを表現する少年。

 

この日には、乳児であってもイマーム・ホセインへの敬慕の念を示すだめに、緑色の装束できちんと着飾っています。

 

追悼の行列をはじめ、ヘイアトと呼ばれる追悼の集いの場に参加した人々には、食事のほか、小麦粉を油と砂糖で炒めた、ハルワーと呼ばれるお菓子などが配布されます。しかし、これも半端な数ではなく、調理も運搬も一苦労ですが、イマーム・ホセインが灼熱の太陽が照りつけるカルバラーの地で味わった苦しみに比べれば何のその、いえるかもしれません。この食事をいただく事も、イマーム・ホセインにあやかることになり、ご利益があるということです。このように、宗教的な行事に際して調理され、人々に無償で配布される食事はナズリーと呼ばれ、一般には願掛けをする人が調理して人々に配る事が多くなっています。

 

テヘランでのナズリーを、いくつもの大なべを使って調理している様子。これは、ゴルメザブズィと呼ばれる、野菜のみじん切りと肉、赤インゲン豆を煮込んだメニューで、炊いたご飯と一緒に食べます。大量の野菜を煮込みながら混ぜるという、大掛かりな作業が行われています。

 

そして、この追悼行事で欠かせないのは、イマーム・ホセインのカルバラでの苦しい戦いと殉教の様子を再現した宗教劇・タアズィーエです。これは、街頭や広場などの屋外で行われることもあれば、テキエと呼ばれるこの宗教劇専用の建物内で上演されることもあります。以下の写真は、テヘラン市内のある広場で実施されたタアズィーエの様子です。

出演者のうち、緑色の衣装を着ている役者はイマームホセインとその教友たちを、赤い衣装を着ている役者は敵方の暴君ヤズィード側の軍勢を演じています。

イマーム・ホセイン側の人物に扮した役者。

一方でこちらは、悪役のヤズィード軍に扮した役者たちです。

イマーム・ホセインがヤズィード軍に討たれ、倒れている様子を再現。

 

イマーム・ホセインの亡骸を埋めるための穴を掘った場面を再現。

 

また、こうした宗教劇の上演の場でなくとも、緑のハチマキを締め、イマーム・ホセインに扮した子供たちの姿も見られました。

 

 

さて、ここまではテヘランで見られるごく平均的なアーシュラーの儀式の様子をご紹介しました。ですが、イランといえど広しで、各地方ごとに少しずつ違いや特徴が見られます。ここからは、イランの各都市で見られるアーシュラーの追悼行事の中でもも、際立った特色のあるものをご紹介してまいりましょう。

まずは、イラン中部の都市ヤズドでの様子をご覧ください。この都市で行われるアーシュラーの追悼行事では、独特の山車が大勢の人々によって回転される、ナフレギャルダーニー(ナフル・山車+ギャルダーニー・回転)を意味する)が行われます。但し、それぞれの集団によって山車のデザインもそれぞれ独自の趣向が凝らされています。この様子を見ていて、大阪の岸和田だんじり祭りにいささか似ているような感じを受けました。

大勢の人々が神輿にも似た山車を担いでいる様子には、思わず圧倒させられます。

 

なお、このナフレギャルダーニーの儀式の由来についてははっきりしていませんが、一説にはナフルと呼ばれるこの山車が、殉教者の棺を表現し、これを担ぐ事で殉教者の棺を担ぐ様子を表しているといわれています。

 

さて、今度はイラン西部ロレスターン州に見られる、アーシュラーの追悼行事に関する珍しい風習をご紹介しましょう。これはゲルマーリー・泥塗りの儀式と呼ばれ、アーシュラーの前夜の夜中に顔を初めとする全身に泥を塗ることで、殉教者への追悼の意を表すというものです。泥を体や顔に塗ってから、焚き火で乾かし、翌日のアーシュラーの日の正午までその状態を保つということです。

 

なお、この儀式の際に使われる泥は、事前にふるいにかけてバラ水で溶いたものが使われるということです。

 

次は、イラン東部・南ホラーサーン州の町ビールジャンドで見られる、スコップ打ちの儀式・ビールザニーの様子をご紹介しましょう。

この儀式は、およそ300年の歴史があるとされ、イラク・カルバラーでの殉教者の亡骸を埋葬した人々に敬意を表する儀式とされています。この儀式は、アーシュラーの日の午後に実施され、この行事に使われるスコップは、殉教者の亡骸の埋葬に使われた道具として、聖なるものとみなされています。

 

この儀式では、日本でよく見かけるスコップよりは、幾分軸の部分が長いと思われるスコップが使われているようです。

この儀式は、男性が15人ずつのグループを作って、各人がスコップを手に持ち、これを空に向かって突き上げ、スコップの先を互いに打ち合わせるという形式で行われます。

儀式開始前に、イマーム・ホセインへの哀悼の念を胸に、気を引き締める男性たち。

 

儀式開始前に、祈祷をささげる男性。

 

また、イラン中部や南部の一部の地域では、このイマーム・ホセインの追悼の儀式が、アラブ系住民により火や松明などを使用して行われ、これらはマシュアル・ギャルダーニー(マシュアル・松明+ギャルダーニー・回転)と呼んでいます。

テヘラン南方の聖地ゴムでのマシュアル・ギャルダーニーの様子。

 

テヘランで普通に見られるこの行事の山車には、鳥の羽がついていますが、ここでは火がともされています。

松明や火を使用しての追悼行事の1つ・マシュアルギャルダーニーは、およそ500年の歴史があり、モハッラム月の最初の10日間に行われます。この行事は、パフラヴィー朝のレザー・シャーの時代には厳しい取締りや禁止措置を受けたこともあったということです。一部の地域では、モハッラム月の開始を宣言する目的で、同月1日にこの行事を行い、また別の地域ではイマーム・ホセインとこれに同伴していた彼の教友たちが、イラク・カルバラーに到着したモハッラム月の8日に行います。

 

ちなみに、マシュアルギャルダーニーの儀式の一種として、北東部ゴレスターン州ゴルガーン市でモハッラム月の12日の前夜に行われる、片手に木の棒を持ってこれを上下に振り、もう一方の手で胸を叩きながら挽歌を朗誦する追悼行列・ダステチュービー(ダステ・行列+チュービー・木の棒)があります。

この儀式の特色は、追悼の行列の参加者が小道具として、鎖の束ではなく、1.3メートルほどの長い木の棒を使用することです。なお、この儀式の開始に当たっては、多数の松明が点火されます。

 

松明を準備している様子。

 

一方、イラン北西部の東西両アーザルバーイジャーン州、そしてアルダビール州などでは、行列をなして街中を練り歩く際に、テヘランなどで一般的に見られる、手で胸や頭をたたく動作や、鎖の束で体を打つ動作を繰り返すほかに、「シャフセイ、ヴァフセイ(ホセイン王、ああ、ホセインよ)」という文句を一斉に叫びます。さらに、これらの地域で見られるアーシュラーの追悼行事の習俗の中で、特に興味深いものに、盥を使った儀式・タシュトゴザーリーが挙げられます。

この儀式の歴史は、今からおよそ500年ほど前のサファヴィー朝時代にさかのぼります。史料によれば、この儀式は当初はアルダビールのみで行われていたものの、次第にイラン北西部アーザルバーイジャーン地方をはじめ、北部ギーラーン州やマーザンダラーン州にも広まったとされています。

この儀式では、地域内の長老たちが近くの泉の水を入れた銅製の盥、あるいは空の盥を肩にかつぎ、人々の集まっているモスクへと向かいます。盥を担いだ長老たちがモスク内に入ってくると、中にいた人々は立ち上がって胸を叩きます。そして、長老たちの担いできた盥を特定の場所に置き、盥が空の場合はあらかじめ壺に入れて用意していた水を盥に注ぎ、この聖なる水を人々に与える、という手順になっています。

たくさんの人々が、イマーム・ホセインの生死を分ける事になった水を運ぶ盥にさわり、この偉人にあやかろうとしています。

ところで、この儀式で使用される盥は、カルバラーの地での水運び人が持っていた、現在の水筒のようなものに相当する羊の皮でできた袋、並びにユーフラテス川の水を象徴しているということです。シーア派、特にイラン人の文化では、水が特別な位置づけにあります。これは、カルバラーでのこの事件で、イマーム・ホセインと彼に従ってついて来た教友や近親者などに対し、敵方が水の補給源であるユーフラテス川の流れを遮断したことから、水運び人が皮袋に水を入れて、暑さで弱っていたイマームホセインらの口元まで水を運んだ、という史実によるとされています。

 

さらに、中部マルキャズィ州アンジュダーン村では、チェグチェゲ・ザニーと呼ばれる儀式が行われます。

 

これは、クルミの木でできた玉のようなもので、底が平べったくなっており、指を引っ掛けるための皮のついた小道具(チェグチェゲ)を打ち鳴らしながら、街頭や路地を練り歩くという行事です。

 

イマーム・ホセインへの追悼を念じながら、小道具の木の玉チェグチェゲを打ち鳴らす男性。

このように、イスラム暦モハッラム月の追悼行事と一口に言っても、そのほかの慣行儀礼と同様にイラン国内の各都市・地域ごとに、それぞれ特徴がある事がわかります。しかし、この行事の挙行に当たって共通していることは、大勢の人々が一丸となって、今から1400年近く前のイラクで神の道に命をささげ、暴君と果敢に戦って殉教したイマーム・ホセインの勇敢さを称え、哀悼の意を示すとともに、いつの時代においても、また世界のいずれの地域であれ決して許されてはならない圧制の排斥、というメッセージを伝えることではないでしょうか。今からはるか昔の時代に、そうした斬新な思想と理念を掲げて行動を起こしたイマーム・ホセインの勇壮な精神は、時代や国境を越えて全人類に受け入れられ、こうした行事を通して、恒久的に語り継がれていくことでしょう。

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