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テヘランの西方に位置するガズヴィーン州は、イランの歴史上重要な町であり、1598年に中部の町イスファハーンに遷都されるまではイランの首都が置かれていました。現在、ガズヴィーンは首都テヘランと北西部の主要都市タブリーズを結ぶ鉄道路線と高速道路が通っており、立地条件にも恵まれています。このため、パフラヴィー朝時代以降はイランの産業発展の牽引車のような役割を果たしてきました。また、この州は、イランの発展に尽くした数多くの学者や軍人、詩人、文化人、宗教指導者などの著名人を輩出しています。今回から3回にわたりイランのかつての首都・ガズヴィーンの名所旧跡や、この地ゆかりの著名人などについてご紹介してまいります。
ガズヴィーンの歴史とあらまし
それではまず、ガズヴィーン州の由来とあらましについてご説明することにいたしましょう。地図で見ると、この州はカスピ海に比較的近い場所にあります。このことから、現代の考古学者や歴史家は、カスピ海沿岸地域に住んでいたカス族という民族が、現在のガズヴィーンのある場所に移住してきて町を造り、この町がアラビア語でカス族の作った町を意味するガズヴィーンと呼ばれるようになったと考えています。さらに、このガズヴィーンという名称は、英語で「カスピ海の」を意味する形容詞カスピアンの語源になったとも言われています。ガズヴィーンは、イランの激動の歴史の震源地ともいえる位置づけにあり、イスラム初期にはアラブ軍の拠点となり、13世紀にはチンギス・ハンの率いるモンゴル軍の襲撃を受けました。その後、今からおよそ500年前のサファヴィー朝時代、タフマースブ1世の時代にはイランの首都となっています。さらに、第1次、第2次世界大戦の際には、ロシア軍や旧ソ連軍に占領されたこともありました。ガージャール朝時代の1795年に、テヘランがイランの首都となってからも、ガズヴィーンはテヘランに近いことから政治的に重要な拠点とされていました。現在、この州全体の面積は、1万5820平方キロメートルで、日本の岩手県を少々上回る大きさです。州全体の人口はおよそ120万人ほどで、中心都市ガズヴィーン市のほかに5つの行政区が存在します。主に使われている言語は、標準的なペルシャ語ですが、ほかにも地元の方言やトルコ語、そしてターティー語という独特の言語も使われています。又、産業としては、特にブドウやピスタチオ、トウモロコシ、小麦の生産をはじめとする農業や養鶏業、鉱工業が盛んであり、さらにこの州はイランで最も史跡や文化財が多い州とされています。このように魅力溢れるガズヴィーン州に、今回初めて足を運ぶこととなりました。
ガズヴィーン市内までの様子と地元の朝食
朝早くに車でテヘランを出発し、テヘラン西方に隣接したアルボルズ州を通り過ぎ、ガズヴィーン州に入りました。高層ビルが立ち並ぶテヘランとは違い、背丈の低い植物がまばらに生えているガズヴィーン平原が広がっています。すると、4本の煙突のようなものが建っている施設が見えてきました。これは、イランでも最大規模を誇るシャヒード・ラジャーイー火力発電所です。この発電所は、コンバインドサイクル発電による発電を行っており、総発電量は2000メガワットを上回るということです。なお、この発電所の名前になっているシャヒード・ラジャーイーとは、元イラン大統領を務めたガズヴィーン州出身の政治家、モハンマド・アリー・ラジャーイーに由来しており、シャヒードとはペルシャ語で殉教者を意味します。
彼は、1979年のイラン・イスラム革命の熱烈な支持者の1人であり、首相や外務大臣を務めたこともありましたが、1981年の爆破テロ事件で殉教しました。なお、イラン南部ペルシャ湾にも、この人物の名前を冠した港であるバンダル・シャヒード・ラジャーイーが存在します。
さて、本格的な史跡めぐりを始める前に、ガズヴィーン市内の小さなレストランで、この地域特有の朝食をとることにしました。これは、日本ではあまりお目にかからないと思われるレンズ豆を煮込んだものです。丸24時間水につけておいたレンズマメを、直径が1メートル近くもあると思われる鍋で水や油と一緒に柔らかくなるまで煮込んだものだということでした。これに炒めた玉ねぎとトマトペースト、レモン汁、塩と胡椒を加えるのが一般的ですが、お好みでそれ以外の調味料を加えることもできます。5月とはいえ、朝方はまだ少々肌寒い陽気の中、出来立ての温かいレンズマメのポタージュの味は格別でした。
書道博物館・チェヘロソトゥーン宮殿
今回のガズヴィーン訪問でまず訪れたのは、チェヘロソトゥーン宮殿博物館でした。この博物館の建物は、大きな庭園の中央にあり、サファヴィー朝の王タフマースブの時代から残る唯一の建物とされています。タフマースブ王は当時、北西部からオスマン朝トルコの脅迫を受けていたために1548年、首都をそれまでイラン北西部にあったタブリーズから、ガズヴィーンに移しました。そして、この地に王宮を建てるために土地を求め、えり抜きの建築家に正方形の庭園を作り、その中央部に大広間やテラス、美しい池のある豪華な宮殿を建てるよう命じます。尚、この建物は当時は屋根の形がヨーロッパに見られるキオスクの、帽子のような屋根の形に似ていたことから、ペルシャ語で「ヨーロッパの帽子」を意味するコッラー・ファランギーと呼ばれていました。しかし、今から200年ほど前のガージャール朝時代に修復が加えられ、40本の柱を意味するチェヘロソトゥーン宮殿と改称されています。
さて、実際にこの宮殿博物館に足を運んでみると、5月の新緑のみずみずしさが溢れる庭園の中央に、柱が何本もある2階建ての建物が建っていました。建物全体の形は八角形で、それぞれの階に何本もの柱とアーチがあります。さわやかなそよ風に吹かれながら、花壇に植えられた色とりどりのパンジーの花を楽しみ、丹念に手入れの行き届いた庭園内の歩道を歩き、博物館内に足を踏み入れました。
この宮殿は、2007年から書道博物館として使用されています。そのため、広間の中央部を中心に色々な時代のペルシャ書道の作品が展示されていました。額縁に入れられているものもあれば、手書きの写本の書物になっているものもありました。ここには2000点以上の作品が展示されており、それらは主に、今から400年前に亡くなったガズヴィーン出身の著名な書道家ミール・エマード・ガズヴィーニーをはじめ、ミールアリー・ヘラヴィー、マーレク・デイラミー、ゼイノルアーベディーン・ガズヴィーニーなどの作品です。また、これらの作品に使われているのはナスタアリーク体、或いはシェキャステ・ナスタアリーク体と呼ばれる書体で、ペルシャ書道で使われる書体の中でも最も美しいとされ、イスラム書道の花嫁とも評されています。
今から数百年前の作品にもかかわらず、保存状態は非常に良好でした。ナスタアリーク体の作品は、まるで黒いリボンのようなものがひらひらと踊っているように流麗な雰囲気を漂わせていました。また、こうした展示品の中には地元の有力者の結婚契約書もあり、見事な習字体により、しかも細い字でびっしりと契約内容が書き込まれていました。
それから、この博物館のもう1つの見所は、天井や壁に施されている装飾と、窓枠にはめられているステンドグラスです。この宮殿はもともと、サファヴィー朝の王族の女性向けに造られたため、彼女たちが快適に過ごせるように配慮され、彼女たちは主にこの建物の二階から、庭園で開かれる催し物などを見学していたということです。よく見ると、壁の上の方にはアーチを掘り込んだ中に女性の姿が描かれ、これもまた大きなアーチ型の窓には細かいデザインのステンドグラスがはめ込まれていました。
また、天井の一部分にも、モスクなどに見られるような立体的、幾何学的な装飾が施されています。ステンドグラスに日光が当たると、室内が色とりどりの光に照らされ、幻想的な風景を生み出していました。なお、このステンドグラスは、装飾面での見た目の美しさのほかに、外部から虫が入ってこないようにする役割も果たしていたということです。これらのきらびやかな装飾と、500平方メートルにも及ぶ広々とした空間から、当時の王族の女性たちの華やかな生活ぶりをうかがい知ることが出来ました。
ガズヴィーン市民博物館
次に見学したのは、先ほどの宮殿博物館のある庭園に隣接したガズヴィーン市民博物館でした。ここは、先ほどの宮殿博物館とはうって変わって、いわゆる古代からその後の王朝時代の遺物を展示してある、典型的な歴史博物館です。展示されている品々は、紀元前のものとされる土器や装飾品、各王朝時代に鋳造されたコイン、イスラム以降、数百年前の王朝時代の王族たちが使用していた大型の金属製の壺や水差し、手の込んだ刺繍の施された衣服やクッション、さらには印章までと様々です。
私が特に関心をそそられたのは、時代順に並べられている数多くのコインでした。イスラム以前のサーサーン朝やアケメネス朝などのコインの多くには、その時代の為政者である王の肖像が掘り込まれているものが多く、イスラム以降のコインの多くは、アラビア語のコーランの節が刻まれています。また、イランの王朝で印章が使われていたということも、この博物館を見学して初めて知りました。
テヘランの門
ところで、ガズヴィーンはテヘランやカスピ海沿岸地域との往来の拠点でもあることから、また外敵からの攻撃や略奪、盗賊などを防ぐために高い壁を伴う、市内への玄関門が設けられていました。当初、こうした玄関門は8つあり、それぞれの門には「テヘランの門」、「ラシュトの門といった名前がつけられています。伝えられているところによりますと、「テヘランの門」は、テヘラン方面からやって来る人々のために、ガズヴィーンの東側に設けられ、「ラシュトの門」は、北部のカスピ海地域からの人々の為に、北側に設けられていたということです。これらの門にはガズヴィーンの人々の文化的、芸術的な趣向が凝らされています。この中でも最も古いとされているのは「テヘランの門」であり、これはガージャール朝時代のものだということです。今回は、その「テヘランの門」に足を運んでみました。高さは10メートル、長さは15メートルはあるでしょうか。真ん中の大きなアーチの両側に、小さめのアーチが1つずつ並んでおり、真ん中に4本、両端に2本ずつのミナレットが立っています。普通のモスクをあしらったような形式で、これも細やかな化粧タイルにより、美しいイスラム的な模様が施されていました。
次回も、イランのかつての都ガズヴィーンにある数多くの見所をご紹介する予定です。どうぞ、お楽しみに。