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イラン西部ハメダーン州・アケメネス朝時代の碑文ギャンジナーメ

 

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アケメネス朝時代の碑文・ギャンジナーメ
アケメネス朝時代の碑文・ギャンジナーメ

イラン西部ハメダーン州・アケメネス朝時代の碑文ギャンジナーメ

楔形文字碑文
楔形文字で刻まれた碑文

前回まで4回にわたり、イラン西部ロレスターン州とケルマーンシャー州の名所旧跡と世界遺産の数々をご紹介してまいりました。今回は、これらの州に隣接したハメダーン州に足を伸ばし、この州にある見所の1つ、アケメネス朝時代の碑文・ギャンジナーメをご紹介することにいたしましょう。

ハメダーン州の名称の由来と歴史
ハメダーンが初めて歴史に登場したのは、紀元前1100年ごろのこととされています。但し、その当時はアーマダーネという名で呼ばれていたほか、歴史的な文献にはヘグマターネ、ヘグマターン、エクバターン、エクバターナー、アーナーダーナーなどといった名称でも表記されています。アッシリア語の碑文では、アーマダーネと刻まれており、アッシリア人たちは、イラン高原北西部の地方の呼称であるメディアをアーマーダーイと呼んでいました。このため、この語はメディア地方に住む人々の言葉、即ちインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属する、古典語のメディア語から派生したものではないかと言われています。つまり、ハメダーンの元祖となったアーマダーネという地名はメディア人の住む土地を指しています。なお、紀元前8世紀から6世紀ごろにイラン北西部にメディア王朝が栄えていた時期には、古代ペルシャ語で「集まりの場」を意味するヘグマターネと呼ばれていました。また、ギリシャ語ではエクバターンと呼ばれ、その後のサーサーン朝時代にはアーフマターン、アーフマダーンへと変化しました。そして、最終的には現在の名称ハメダーンもしくはハマダーンと呼ばれるに至っています。
このように、ハメダーンはイラン最古の都市であるとともに、世界最古の都市の1つとも言われ、かつての古代オリエント地方のメディア王国の首都エクバターナがあった所だということになります。
イランの英雄叙事詩人フェルドウスィーによれば、ハメダーンは神話時代に偉大なるジャムシード王により建設されたと言われています。
また、ギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、紀元前8世紀ごろにデイオケスという人物が出現し、メディアを統一して初代の王に就任し、エクバタナに七重の城壁(ハフト・ヘサール;ハフトはペルシャ語で7、ヘサールは城壁の意味)を建設して、ハメダーンを都として発展させたことが記録されています。当時は、メソポタミアの古代都市バビロンの塔に匹敵するほどの威容を誇り、その後もメディアの王たちによる周辺開発により、一大帝国の首都に発展したということです。なお、メディアの滅亡後はアケメネス朝とアルサケス朝の夏の首都とされ、サーサーン朝時代にも夏の宮殿がおかれていました。
しかし、642年に現在のテヘラン南方の町ニハーヴァンドの戦いでアラブ軍に敗北したために、ハメダーンはアラブ軍に征服され、それまでの繁栄から今度は一変して衰退への道をたどることになります。10世紀から11世紀のイスラム王朝・ブワイフ朝下でも多くの害を受けるなど、ハマダーンは支配勢力の権力の盛衰に伴って常に襲撃の的となりました。14世紀から16世紀に栄えたティムール朝軍の侵攻では完全に破壊され、その後のサファヴィー朝時代になって繁栄を取り戻します。そして、18世紀にはオスマン朝に服したものの、ペルシャのナポレオンとも称された英傑で、アフシャール朝の初代皇帝ナーディル・シャーによって盛り返し、オスマン朝との和平によって、再びイランに復帰しました。
ナーディル・シャー
ナーディル・シャー(1688-1747)

ハメダーンは東西交易路、イラン西部の交通の大動脈上に位置し、近代に至るまで交易・商業から大きな利益を得る上で重大な役割を果たしてきました。
現在のハメダーン州は、テヘランからやや北西に330キロほど離れており、総人口はおよそ170万人で、州都ハメダーンをはじめとする9つの行政区に分かれています。この州の北西から南西にかけては、ザグロス山脈の一部であるアルヴァンド山地が走り、全体的に標高の高い地域にあります。このことからも、この州は夏は比較的温和で、冬の寒さが厳しいという亜寒帯性気候区分に属しています。
この州で話されている言語は、公用語のペルシャ語のほかにトルコ系言語のアーゼリー語、前々回までご紹介した近隣のロレスターン州でも話されるロル語、クルド語、そしてその南部方言とも言われるラキ語などです。
さて、このような悠久の歴史を誇るハメダーンには、いくつもの見所がありますが、今回はこの州を代表する名所で、アケメネス朝時代の楔形文字による碑文・ギャンジナーメを見学することにしました。
この碑文は、ハメダーン州の中心都市ハメーダーン市街から南西に約8キロ離れた、アッバースアーバード谷の最終地点である、アルヴァンド山の岸壁に刻まれたものです。実際には、ギャンジナーメ観光施設郡の一部となっており、岩山の間の曲がりくねった石造りの坂道を5分から10分ほど上ったところにあります。

アルヴァンド山の岸壁
ここも、イランの観光名所の1つであることから、大勢の見学客で賑わっていました。しばらく坂道を上った後に、階段を目の前にして、ふと見上げると、そこには2つの長方形が繰り抜かれた大きな岸壁が立っています。いったい何が刻まれているのでしょうか。

2つの長方形が繰り抜かれた大きな岸壁
この岸壁には、一辺が1メートル強ほどの2つの長方形が並んでえぐり抜かれており、左側の長方形の方が50センチほど上の方にあります。ここに刻まれている内容は、イランの古来の宗教であるゾロアスター教の最高神アフラ・マズダと、アケメネス朝の王ダリウーシュ1世およびその息子のクセルクセス1世を称えるものです。
また、そもそもギャンジナーメとはペルシャ語でギャンジ(宝)ナーメ(書)、即ち「宝の書」を意味しています。この名称がつけられた由来には諸説がありますが、一説には当時の人々の間で、この碑文に隠された宝の秘密が刻まれていると信じられていることから、この名がついたとされています。

外国人観光客も多いせいでしょうか、英語による案内板も出ています。

案内板
さて、いざお目当ての碑文に視線を投じてみると、いずれの長方形にも、楔形文字がびっしりと刻まれています。向かって左側がダリウーシュ大王を、そして右側がその息子のクセルクセスを称えた碑文です。
碑文
楔形文字
それぞれの長方形のうちの、左側から3分の1強を占める部分が古代ペルシャ語、中央部はエラム語、右側の部分は新バビロニア語で20行に渡り刻まれているということです。
そして、これらの碑文に実際に刻まれている内容の現代ペルシャ語訳と、英語訳による案内板もありました。向かって左側がペルシャ語訳、右側が英語訳です。
ペルシャ語訳
英語訳
「偉大なる神アフラ・マズダ、最高なる神」で始まり、中ほどには「朕はクセルクセス、偉大なる王、最高の王」という賞賛の句が刻まれています。
今から176年前に、フランスの画家でオリエント学者でもあったユージーン・フランディン(1809-1889)と、フランスの建築家パスカル・コステ(1787-1879)らが、この碑文を写しとり、これらの碑文の助けにより、楔形文字の大部分を解読していますが、そのうちの最大の成果は、先月ご紹介したケルマーンシャー州にあるビーソトゥーンの碑文の解読です。
とにかくびっしりと並ぶその楔形文字は、紀元前から千数百年もの時代を越えて、現代に生きる私たちにイランの悠久の歴史を物語っています。高校時代に世界史でオリエントの歴史を学んだ際に心ひそかに憧れた、楔形文字に代表される西アジアの考古学的なロマンを思い出すともに、今度は現実に楔形文字を目の当たりにし、感無量の思いでした。

ギャンジナーメの碑文の前に立つ筆者
ギャンジナーメの碑文の前に立つ筆者

さて、アケメネス朝の碑文を見学した後、この観光施設群内を散策してみました。陽気のよい時期とあって、沢山の行楽客や家族連れの姿が見られます。
沢山の行楽客や家族連れ

その向こうにまず目に付いたのは、見事な滝でした。
滝1
滝2
この滝とその周辺は、特に春や夏には自然散策を楽しむ人々や学生で賑わうとのこと。また、冬には沢山の氷柱ができ、独特の光景が楽しめるとのことでした。さらに、この滝の後方には、アルヴァンド山の裾野が広がり、特に春には色鮮やかな花々が咲き乱れるということです。ちなみにこの場所は、ミーシャン広場として知られています。
ミーシャン広場
また、この施設群内では、ロープウェーやジェットコースター、フィールドアスレチックも楽しめます。特に、冬には、「イランの山々の花嫁」とも称されるほど美しい、一面の雪に覆われたアルヴァンド山地がかもし出す絶景が楽しめるとのことでした。

ロープウェイ
ジェットコースター

アスレチック

 

ハマダーン州ゆかりの著名人
さて、ハマダーン州ゆかりの著名人として筆頭に挙げられるのは、何と言っても10世紀から11世紀にかけて活躍した、イスラム世界が誇る最高の知識人イブン・スィーナーではないでしょうか。

イブン・スィーナー
イブン・スィーナー(980-1037)

彼は、当時サーマーン朝の支配下にあった現在のウズベキスタンの町ブハラ近郊で生まれました。また、アヴィセンナというラテン語名を持ち、哲学者、医学者、科学者として知られるとともに、医学分野では理論的な医学の体系化を目指した名著『医学典範』を著しました。また、脳腫瘍や胃潰瘍を発見したといわれており、さらに哲学の分野では第2のアリストテレスとも称され、『治癒の書』を執筆しています。彼の著作は数学、物理学、化学、音楽、コーラン解釈、神秘主義など多岐にわたり、その数は100を超えるということです。このように、数多くの分野にわたって業績を残したイブン・スィーナーは、ハメダーンでその生涯を終えており、この地のゆかりの著名人とされています。また、イラン系民族が主流を占める中央アジアのタジキスタンで使用されている20ソモニ紙幣には、イブン・スィーナーの肖像画が印刷されています。
20ソモニ紙幣
なお、ハマダーン市内には現在、この偉人の墓と博物館がありますが、今回は時間の都合で見学できなかったため、今後是非訪れてみたいと思います。

イブン・スィーナーの墓
イブン・スィーナーの墓

また、13世紀から14世紀のイルハン朝時代に宰相として活躍したラシード・ウッディ―ンも、ハメダーン州が誇る著名人です。

ラシード・ウッディーン
ラシード・ウッディーン(1249-1318)
彼は、本名をラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニーといい、ハメダーンのユダヤ教徒系の家系に生まれました。しかし、彼自身はスンニー派の4大法学派の1つ・シャーフィイー派に属するイスラム教徒であり、イルハン朝時代の宮廷の典医として出仕しました。その後、イルハン朝のガザン・ハーンが第7代君主として即位した後、当時の宰相サドルッディーン・ザンジャーニーが処刑されると、サアドゥッディーン・サーヴェズィーとともに登用されて宰相となり、ガザン・ハーンによる改革政策の補佐にあたっています。また、ガザン・ハーンと次代のオルジェイトゥの命によって編纂された、ペルシア語による世界史『集史』の編纂責任者を務めたほか、2007年にユネスコの「世界の記憶」に登録された、「ラシード区ワクフ文書補遺写本作成指示書」の大部分(382ページ中の最初の290ページ)の執筆に当たっていることも注目に値します。

そして、ハメダーン州が輩出したもう1人の著名人として、18世紀に活躍したイラン有数の統治者キャリームハーン・ザンドを忘れてはなりません。この偉大な統治者は、現在のハメダーン州マラーイェル行政区付近のピールーズ村にて、クルド人に近いとされるラク族の一派のザンド族の一員として生まれました。
彼は、当時はペルシアと呼ばれ、長年にわたる戦争や内戦で崩壊の危機にあったイランを再統一し、1750年にザンド朝を創設しました。その在位中は、臣民や国家の復興に力を入れたことから大王、そしてイラン有数の統治者とされています。

キャリームハーン・ザンド
キャリームハーン・ザンド(1705-1779、在位1750-1779)

このように、ハマダーン州は世界に誇る、そして歴史に刻まれる偉人や著名人を数多く輩出しているほか、今回訪問したギャンジナーメの碑文以外にも沢山の名所旧跡があります。それらの見所を今後是非見学できるよう祈念しつつ、今回のレポートを締めくくりたいと思います。