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世界の半分・イランの古き都イスファハーンを訪ねて(2)

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前回は、サファヴィー朝の全盛時代を象徴し、ユネスコ世界遺産にも登録されているナクシェ・ジャハーン広場と、ここにあるいくつかの見所をご案内いたしました。

イスファハーン最古のモスク・ジャーメのモスク

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今回はまず、この広場から出て、この広場とは小道のバザールでつながっている、イスファハーンで最も古いジャーメのモスクをご紹介することにいたしましょう。このモスクの建設は、771年にさかのぼります。このモスクは、もともとあった拝火教寺院の跡地に建てられたといわれています。また、これまで見てきたモスクにあるアーチ型の入り口、アーチの上の部分の鍾乳石状の装飾、二重構造のドームといった建築方式が、イスラム世界で初めて本格的に採用された上でも、注目すべきものです。
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さらに、11世紀から12世紀にかけては大掛かりな改造が行われました。このときに、中庭の4つの方向にテラスが設けられ、そのうち北東のものは托鉢僧のテラス、南東は弟子のテラス、南西は主人のテラス、そして北西は師匠のテラス、それぞれ名前がつけられています。すなわち、ここは社会階層などに関係なく、すべての人々のために造られたモスクなのです。その後も繰り返し増改築が行われたことから、様々な時代の建築様式やタイルワークなどが見られますが、ナクシェジャハーン広場にあるイマーム・モスクとは対照的に、全体的に少々地味な印象を受けました。バーザールに面したアーチ型の入り口は、200年ほど前のガージャール朝時代ものだということです。中に入って敷地内を見渡すと、ベージュ色の下地に、青、黄色、白のタイルを使用しての見事なモザイク模様が至る所に見られます。
しかし、このモスクで私が最も感銘を受けたのは、北西のテラスに面した礼拝室に設けられ、イスラム教徒の礼拝の方角であるメッカの方向を示す壁がんでした。

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この部分は、今から800年ほど前のイルハン朝の王オルジャイトの時代に造られたといわれ、漆喰による見事な彫刻が施されています。デザイン全体は左右対称で、下の部分には、小さなアーチがあり、草花の模様や幾何学模様が丹念に掘り込まれています。そして、もう1つ私が注目したのは、何本もの柱に支えられている礼拝堂でした。
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これは、14世紀のムザッファル朝時代のもので、茶色のレンガで作られています。延々と続く小さなドームの下には、いくつもの柱とアーチが、独特の景観と雰囲気を生み出していました。このモスクには、ブワイフ朝時代からサファヴィー朝時代にかけて拡張された礼拝堂があり、そのドーム型の天井の建築様式は、484にも上るということです。

サファヴィー朝時為政者の迎賓館・チェヘロソトゥーン庭園博物館

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さて、今度はサファヴィー朝時代の繁栄振りをしのばせる、チェヘロソトゥーン庭園博物館に皆様をご案内したいと思います。この宮殿は、1657年にサファヴィー朝のアッバース2世により、迎賓館として建設されました。庭園そのものは、その前のアッバース1世の時代にすでに完成していたということです。チェヘロソトゥーンとは、ペルシャ語で40本の柱を意味しますが、これは宮殿にある20本の柱がこれに面した大きな池に写ることで40本に見えることによるものです。さて、到着してみるとまず、ブルーのモザイクタイルで装飾された、全体的に白い建物が入り口となっており、ここから中に入ります。白いアーチ型の入り口には、以前に見たイマームモスクのような鍾乳石状の装飾が施されています。ここを通り過ぎると、広い庭園に出ました。

芝生や低木が丹念に植えられ、よく手入れされている様子が伺えます。両側にある植え込みを眺めながら、いくつものアーチのあるクリーム色の建物に向かって、石畳の道を歩きました。この建物を抜けると、目の前に木立に囲まれた大きな長方形の池が広がり、その遠くに謁見の間として建てられた宮殿の建物が見えました。

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庭園の緑と、静かに佇む宮殿の建物、そして池の水という、3つの要素が見事に組み合わされ、また人影もまばらな敷地内の雰囲気に、サファヴィー朝の為政者たちの高級な趣向が見て取れました。さらに、本命の宮殿に足を運んでみますと、入り口付近の広いスペースに3本ずつ6列の柱が屋根を支え、そして正面に2本の合計20本の柱が立っています。

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驚いたことに、壁も柱もすべて木造建築であり、ひび割れている部分もあることから相当の年月を経ていることが伺えました。アーチ型の入り口にはガラスを使ったモザイク装飾が施されています。

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入り口から中に入ると、かつては謁見の間として使われていた広いスペースは博物館となっており、当時の王朝時代に使われていた王侯貴族たちの品物などが展示されていました。

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さらに驚いたのは、ここにある色鮮やかな壁画です。6枚ある壁画は、戦いや酒宴の様子が描かれており、描かれている人物のうち男性たちはほとんど頭にターバンを巻き、女性たちも華やかな服装で描かれていました。このようなところからも、栄華を極めたサファヴィー朝時代の雰囲気が感じられました。

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イスファハーン市のご出身で、現在もイスファハーン市内に在住されているザハラー・アーベディーニーさんは、次のように語っています。
1.イスファハーンの一番の大きな魅力はどんなところにあると言えるでしょうか?
イスファハーンを一言で言い表すなら、スカイブルーのドームのある町だと言えると思います。これはすなわち、精神的、神秘主義的により崇高なレベルを目指す、最終的には精神的な安らぎが得られる、そうした精神性あふれる町だと考えてよいと思います。こうした雰囲気は、やはり実際にご自分でイスファハーンに足を運んでいただいて、体感していただくのが一番でしょう。また、イスファハーンの歴史を大きく変えたのは、この町を流れるザーヤンデルード川の存在と言えます。ゆったりと流れるこの河川は、イスファハーンをご訪問された皆様に、安らぎを与えてくれるもう1つの要素ではないかと思います。この一大河川には、スィーオセポル橋など、歴史ある橋がいくつもかかっており、これらの橋を渡りながら、清らかな水をたたえて悠然と流れるザーヤンデルード川を眺めると、そのせせらぎの音により心の安らぎが感じられると同時に、希望までをも与えてくれるような気がします。心の安らぎと精神性を与えてくれる町、それがイスファハーンの最大の魅力ではないかと思います。

2.イスファハーンには、歴史的な見所がたくさんありますが、日本人の皆様に特にお勧めしたい見所はどこでしょうか?
一番お勧めしたいのは、まずナクシェジャハーン広場です。ここには、イランの旧跡が大集合しており、この町の芸術と文化を代表していることからも、決して見逃せないスポットです。それから、年代の古いモスク、特に金曜モスクがお勧めです。このモスクはレンガ造りによる世界最古のモスクであり、先ほどお話したような精神性や、日ごろのざわついた環境を離れて厳粛な雰囲気を味わっていただくのに適していると思います。


3.最後に、日本人の皆様に一言メッセージをお願いします
ーイランにお越しになった際には、1日でも結構ですから時間を割いて是非イスファハーンに足を運んでみてください。ご自分でその素晴らしさを体感していただければ、イスファハーンはすっかり皆様のお気に入りの町となり、1ヶ月滞在されても飽きないかもしれません。皆様のご訪問を心よりお待ちしております。
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今でも謎に包まれた「揺れるミナレット」

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さて、イスファハーンには他にも見逃せない観光スポットがあります。それは、市内から西に6キロほど離れた地区にある、「揺れるミナレット」として有名なモスクです。これは、一見するとアーチ型の入り口の着いたモスクの両側に、2本のミナレットが建っているという点では、普通のモスクに見えますが、この建造物の見所は何と言っても、ミナレットの一方を揺らすともう一方のミナレットがかすかに揺れることにあります。この建造物は今から800年ほど前に、モンゴル系の王朝であるイルハン朝のオルジャイト王の時代にメインとなる建物が建設されました。当初は、この地区の出身とされる神秘主義者アムー・アブドッラーの霊廟として建てられ、その後300年近くが経過したサファヴィー朝時代に2本のミナレットが追加されたということです。いざ、このミナレットのある霊廟に到着してびっくり。全体としての景観はベージュ色で、看板がなければ思わず見過ごしてしまいそうな、ごく普通のモスクでした。しかし、すでにたくさんの人々が木立のある敷地内に集まっていました。その中のお客さんの1人に聞いてみると、決まった時間に係員の方が屋上に上ってミナレットを揺らしてくれるとのこと。どうやら、定刻が近づいているようです。ミナレットそのものの高さは7メートル、地上からの高さは、およそ17メートルあり、ベージュ色の下地に紺とスカイブルーのタイルで幾何学的な模様が施されています。石とレンガでできているという、いかにも頑丈そうなミナレットをどうやって揺らすのかと考えていると、やっと係員の男性がやって来ました。建物の左側の入り口から中に入り、屋上に出て、向かって左側にあるミナレットに近づき、見物客の視線が注目する中、ミナレットに両手をかけて渾身の力をこめ、ミナレットを揺らしはじめました。すると、面白いことに、右側にあるもう一方のミナレットが、共鳴するようにわずかながら小刻みに揺れているのが確認できました。なぜこのような現象が起こるのかは、今なお学問的に解明されていないということですが、有力な説によれば、2本の塔の構造が類似しており、共鳴現象が起きるように造られているからだということです。

イランの33間橋スィーオセ・ポル

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イスファハーンを語る上で欠かせないもう1つの要素は、この町を南北に横断し、全長400キロにわたって流れるザーヤンデルド川と、この川にかかっているいくつかの歴史ある橋の存在です。この川にはまず、既にサーサーン朝時代に、13のアーチを持つ長さ143メートルのシャフレスターン橋がかけられていました。しかし、17世紀のサファヴィー朝時代には、アッバース1世とアッバース2世により、この川において大掛かりな治水工事が行われ、その中でさらにいくつかの橋がかけられます。その中でも特に有名なのが、イランの33間橋と呼ばれるスィーオセ・ポルです。
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この橋は、アッバース1世の都市計画に基づき、グルジア系の司令官アッラーヴェルディハーンにより1602年に完成しました。アッラーヴェルディハーン司令官は、タフマーセブ王の時代に故国ジョージア(旧グルジア)を追放されてイランに移住し、その後家臣としてイランの王朝に登用された人物です。さて、全長300メートル、幅14メートルに及ぶこの橋は、全部で33のアーチがあることから、ペルシャ語で33を意味するこの名前がつけられています。車は通行禁止となっているため、さわやかな日差しのもと、さながら歩行者天国のようにひっきりなしに人々が往来しています。

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また、橋の下には、アーチの間に飛び石のようなものがあり、飛び石を伝って隣のアーチに行くことができます。

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橋の始まりの影になっている場所は、絶好の休憩場所であり、気持ちよさそうに寝そべっている人もいました。さらに、この橋の東へ2キロほどの地点にある、ハージュー橋にも足を運んでみました。
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1666年に完成したこの橋は、133メートルという長さもさることながら、2段構造になっているのが特徴です。下の段は、かつては水門の役割を果たし、また水際まで降りることができる階段があります。橋の上の段にはいくつものテラスが設けられています。このテラスでは、サファヴィー朝時代の王たちにより、夏になると宴が催されたと言われています。当時は豊かな水量を誇ったこの川に面したテラスで、さぞかし華やかな宴が行われたのでしょう。ここ数年で、ザーヤンデルード川は水量が著しく減少したということですが、それでも泰然自若とした景観に非常に、感銘を受けました。さわやかなそよ風に吹かれながら、ザーヤンデルードの川べりをそぞろ歩きすることも、イスファハーン訪問の楽しみの1つといえるでしょう。

アルメニア人居住区・ジョルファー地区

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さて、先ほどの33間橋を渡り、橋の向こうの南側にある大通りを通ってある住宅街に入った途端、それまでとは何となく周りの雰囲気が違っていることに気づきました。ついさっきまで、街中では黒くで長いイスラム式の被り物であるチャードルを被った人々が目白押しでしたが、そのような服装の人々をぱったり見かけなくなり、しかも、普段あまり聞き慣れない言葉が耳に入ってきます。よく注意して聞いてみましたが、まったく理解できません。しかも、商店などの看板に何やら見慣れない文字が書かれています。
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それもそのはず、ここはジョルファー地区と呼ばれ、キリスト教徒のアルメニア系住民が住んでおり、ここで使われている言葉はアルメニア語です。ジョルファーというのは、イラン北西部、アゼルバイジャン共和国との国境にある町ジョルファーに由来します。ジョルファーはアルメニアにも近く、アルメニア系住民が数多く住んでいましたが、17世紀初頭、アッバース1世は彼らの中でも優れた商人や職人を、当時のイランの首都であったイスファハーンに移住させました。彼らは、アッバース1世により信教の自由を与えられたことから、自分たちのコミュニティーを形成してアルメニア人居住区を設け、ここを自らの故郷の名をとってジョルファーと名づけたのです。この地区での見所は、やはり何といってもここに住むアルメニア人はもとより、イラン国内に在住するアルメニア正教徒にとっての宗教的、精神的なより所であるキリスト教会、ヴァーンク教会だといえるでしょう。

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この教会は、この地区内にある13箇所のアルメニア使徒教会の中で最大規模のものとされており、1605年、アッバース1世の時代にイスファハーン造営を目的に、イラン北西部のジョルファーの町から動員されたアルメニア人たちのために設けられました。アッバース1世をはじめとするサファヴィー朝の為政者たちは、アルメニア人や彼らの宗教であるアルメニア正教の保護に努めたということです。なお、現在の建物は1655年、アッバース2世の時代のものだということでした。ちなみに、この教会の一般的な名称であるヴァーンクというのは、アルメニア語で大きいことを意味し、またアメナ・ペルキジ教会という別名もあるそうです。さて、いざ到着してみると、どうやら相当に人気のあるスポットのようで、大勢の人々が出入りしています。ベージュ色の建物の玄関口にはやはり、アルメニア語で文字が刻まれています。

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ここからはアルメニアの世界なのだということを実感しました。何が待ち受けているのかと少々緊張しながら、中に入ってみました。

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この教会の敷地内には、一見すると普通のモスクのようなドームもありますが、キリスト教会というだけあって、十字架のついた鐘楼のある塔も設けられています。敷地内に足を踏み入れてみると、そこはやはり、普段のイスラム的な世界とは一味違う、アルメニア的な世界が広がっていました。敷地内の案内表示も、ペルシャ語とアルメニア語という2つの言語で表記されています。敷地内に入ってすぐのところには、2段になっているアーチのさらに上に十字架のついた、とがった屋根のある囲いのような建物があり、その中には宗教関係者と見られる人物の墓石がありました。この墓石はもちろん、敷地内には何人ものアルメニア人司祭の墓地があり、全てアルメニア語で刻まれています。これらの墓地は、過去にイスファハーンでキリスト教の布教活動に当たったヨーロッパ人のものだということでした。
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しかし、やはりこの教会の最大の見所の1つは、そのすぐそばにある、イスラム風のドームのついたメインビルにある礼拝堂ではないでしょうか。入り口から通路を抜けてその礼拝堂に入ると、イスラム風のアーチをかたどった内壁全体に、見事な宗教画が描かれています。
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真っ先に目についたのは、天国へ上る人々と地獄へ落ちる人々を描いた、「最後の審判」でした。目の覚めるような鮮やかな配色によるこの壁画は、油絵だということです。このほかにも、旧約聖書に出てくる物語が内壁いっぱいに描かれており、見学者はキリスト教独特の厳粛なムードの中で、この見事な宗教絵画に見入っていました。ここでは、幾何学模様やタイルワーク、アーチやドームといったイスラム教の建築様式とキリスト教の文化の見事な融合を感じることができました。
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礼拝堂を出ると、広い中庭をはさんで博物館が設けられています。この博物館には、イランにおけるアルメニア人とアルメニア正教の歴史、アルメニア人虐殺に関する品々や書籍、聖書などが収蔵されています。

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<イランの為政者が出した、アルメニア人の保護に関する勅令書>

ここで特に見学者の注目を集めていたのは、世界一小さなサイズの聖書と、アルメニア文字で聖書の一節が刻まれた毛髪でした。

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重さ0.7gのこの聖書には英語、ドイツ語、フランス語など7カ国語で「主の祈り」が記されているということです。

顕微鏡でのぞくと、確かにアルメニア文字で毛髪の上に聖書の一節と思われる文が刻まれているのが分かります。
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博物館を出て、この教会の敷地の出口に向かおうとしたところで、その一角にアルメニア人の大虐殺を記念する石造りのモニュメントがありました。1915年に発生したこの出来事では、150万人ものアルメニア人が犠牲になったとのこと。博物館内に展示されていたこの事件に関連する資料や遺物とともに、あらゆる民族、言語、宗教の人々が平和共存することの大切さを切実に訴えかけるものでした。

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これまでご紹介した見所のほかにも、イスファハーンにはまだまだいくつかの観光スポットがあります。今回は時間の都合で割愛せざるを得ませんでしたが、それでもまさに世界の半分としてのイスファハーンの醍醐味を味わうことができました。日本の諺では、「日光を見ずして結構と言うなかれ」と言われますが、それと同様に、イスファハーンを見ずしてイラン旅行は完結しないと言ってもよいのではないでしょうか。

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