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イラン中部の意外な名所マルキャズィ州ホメインとマハッラート

Iriguchi

 

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ホメイニ師の生家の入り口

もうかなり前にこのレポートで、イラン中部マルキャズィ州サーヴェとその周辺都市の見所についてお伝えしたかと思います。しかし、この州には、前回は時間の都合でどうしても訪れることができなかった、しかも是非皆様にご紹介したい重要な見所がまだいくつか存在します。このたび、念願かなって、遂にそれらの名所を訪れることができました。今回は、イラン中部マルキャズィー州のそうした意外な名所をご紹介することにいたしましょう。

マハッラートのあらましと温泉
まず、マハッラートという地名の由来についてですが、一説によりますと、様々な文化を持つ地域(ペルシャ語でマハッルと呼ばれる、アラビア語起源の単語)が合併してできたことから、マハッラート(マハッルの複数形)という名称ができたと言われています。また、この地域は紀元前6世紀ごろのアケメネス朝時代には、メディア人の支配下にあったとされています。

マハッラートは、マルキャズィ州内の市(行政区)の1つで、テヘランから南におよそ260キロ離れています。以前のレポートでは、この地域の温暖な気候や、この地域で観賞用植物・園芸用植物の栽培が盛んであること、そしてそれによりこの地が「イランのオランダ」と呼ばれていることについてお話しました。今回は、この地域の別の側面、特に温泉についてご紹介したいと思います。

マハッラートには、温泉、鉱泉、あるいは地下水中より生じた石灰質化学沈殿岩・トラバーチンや大理石などが産出される鉱山が多数存在しており、それらの鉱物は世界的に見ても類まれな高品質を誇るとされています。

ところで、日本ではイランといえば砂漠、というイメージが思い浮かぶのではないでしょうか。しかし、実際にはイランには山岳地帯や火山が多く存在するため、当然ながら温泉があり、このマハッラートも、そうした温泉群の1つです。マハッラートには、6つの温泉があり、それぞれシャファー、ドンベ、リューマティズム、ハキーム、ソウダー、ソレイマニーエという名称が付けられています。また、これらの温泉源の中には、地下2万メートルにも達するものがあり、また地上に湧き出てくる速度によっては、その温度が摂氏100℃に達する場合もあるということです。この地で湧き出る温泉はカルシウム硫酸塩泉であり、通風や肝臓疾患、腎臓病、消化器官疾患に対する湯治効果があるとされています。
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マハッラート観光温泉ホテルの1つ

さて、今回私たちが見学したのはこれらの6つのうちのシャファー温泉でした。但し、残念ながら現在のところ、このシャファー温泉は改築工事のため利用できず、天然の湯が湧き出て流れてくるところを見学するのみとなりました。
プラタナスの木立が広がる中、上手の方から大きな川のように大量の湯が流れてきます。手をつけてみるとちょうどいい塩梅で、すぐにも入ってみたくなるような感覚にとらわれました。さらに上流に向かってみると、大量の湯が石造りの段差を伝って人工の滝のように流れ落ちています。その幅は20メートルほどでしょうか。内陸部とあって、冬は相当に寒さが厳しくなっている中、もうもうと湯煙を上げながら、目の前を大量の湯が流れ落ちていきます。それはさながら、湯のカーテンの中にいるような雰囲気、というに相応しいものでした。

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ところで、この温泉の見学を終えて出発するころには日もとっぷりと暮れていました。宿泊先のホテルに車で向かっていたところ、濃い霧が出てきて辺り中真っ白になっているのに気づきました。まるで、登山をした際に雲が近くに見えるような感じでしたが、これは、この地一体の温泉から発生する湯気が空気中で冷え込み、水蒸気になったことによる現象だとのこと。温泉地区を出るまでしばしの間、霧の中でのドライブとなりました。

イラン革命の創始者ホメイニ師の生家
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1979年のイラン革命を指導したホメイニー師の生家は、マルキャズィ州ホメイン市に現在も残されています。そもそも、ホメイニーという人名は、この偉人の生誕地であるイラン中部マルキャズィ州の町ホメインにちなむものです。そこで、まずはこのホメイン市について簡単にご紹介することにいたしましょう。
この町は、マルキャズィ州の中心都市アラークから南におよそ65キロ、またテヘランからはおよそ320キロ離れており、総人口はおよそ1万4000人ほどとされています。
ホメインの町は、イランの歴史を通して様々な名前で呼ばれてきました。現在の名称であるホメインの語源については諸説がありますが、一説によりますと、ペルシャ語で良き祖国を意味するフーミーハン(フーは“良い”の意味、ミーハンは祖国の意)という言葉からきたものではないかとされています。

現在、ホメイニー師はテヘラン市南方にある大規模なイマーム・ホメイニー霊廟に祀られ、ここには年間を通して多くの人々が訪れています。しかし、そのような霊廟とは対照的に、この偉人の生家はイラン人の間でもあまり知られていない様子。いろいろな人に尋ねながら、やっとのことで探し当てることができ、実際に到着してみると、訪れる人もまばらでひっそりとしていました。
車から降りてみると、ベージュ色のいくつもの平坦なアーチが30メートルほどにわたって横に連なっています。

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しかし、いわゆる観光地にある建造物とは違い、絢爛豪華な装飾などは全くなく、質素な佇まいを見せていました。アーチの連なりの後方には、100メートル近くありそうなベージュ色の壁が建ち、その中央部に小さな入り口が設けられています。この入り口の上方には、「おお、ルーホッラー(ホメイニ師のファーストネーム)に平安あれ」というアラビア語の文句が書かれた緑色の幕が掲げられているだけで、それ以外には装飾は一切施されていません。

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地元の方のお話では、ここは光の家と呼ばれているとのこと。この館の歴史は、今から200年ほど前に遡ります。当時、ホメイニ一族の1人であるセイエド・アフマド・ホメイニが、面積およそ4326平米に及ぶこの敷地を、モフセンという名の地元民の1人から買い入れたとのこと。それ以来、ここにはホメイニ一族が先祖代々暮らしており、またホメイニ師の実父セイエド・モスタファー・ホメイニーの所有物件でもあったということです。なお、ホメイニ師の一族はイスラムの預言者ムハンマドの直系の子孫にあたる家柄とされ、この館はまさに由緒ある旧家というに相応しいものです。イランという一大国家を動かし、イスラム革命という前代未聞の宗教革命により、世界を震撼させた人物が生まれたこの建物の内部はどうなっているのだろう、という思いにかられながら、中に足を踏み入れました。

まず目についたのは、真ん中にハート型の池のある石畳の中庭と、階段のついた2階建ての建物でした。今入った入り口は、写真の右側になります。

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この建物は、宗教教育や宗教関係の会合、来客の接待に使われていたということです。階段を上って木枠の扉を開け、中に入る仕組みになっています。

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ここには長年の国外追放を経てイランに15年ぶりに帰国したときをはじめとする、往年のホメイニ師の写真が沢山展示されています。

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なお、この部分を含めた建物全体は、壁が藁の混じった泥でできており、柱と基礎部分は主にレンガ造り、そして窓や扉は木製という構造になっています。

そしていよいよ、ホメイニ師が生誕したという部屋にたどり着きました。隣の部屋とを仕切る壁の入り口が開いており、英語でもその壁の上方に、ホメイニ師生誕の場という表示がなされています。
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ホメイニ師が生誕したというその部屋は、いわゆる装飾品などは一切なく、石灰が塗られた白壁に何枚かのじゅうたんが敷かれ、座ったときに寄りかかれるよう背もたれとなる固いクッションのようなものが置かれています。他には、ホメイニ師の写真のほか、アラビア語で神を意味するアッラーという文字の書かれたものが置いてあるのみです。

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広さは、日本で言うと8畳位のスペースでしょうか。木枠の窓からは午後の日差しが入り込んでいました。

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ホメイニ師にあやかろうと、このスペースで礼拝を捧げる人、静かに座って瞑想している人、記念写真をとっている人。コーランやアラビア語の祈祷書らしきものを広げ、一心に読んでいる人。それぞれの人が、行動こそ違えど現代イランの偉人の1人であるホメイニ師への思いをはせ、偲んでいたのではないでしょうか。
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ホメイニー師の生家を見学してみて、革命の指導者というダイナミックな一面もさることながら、そのような高位にありながらも国民と同じような生活をおくることに努めていたという、ホメイニ師の清貧さがうかがえました。一般の旅行会社が宣伝するイランの観光名所といえば、イスファハーンやシーラーズなど、どちらかといえば華やかな側面を持つ場所が筆頭に挙げられているのではないでしょうか。しかし、ここは現代のイランが誇る偉人の生誕地には違いありません。建物内に掲げられている写真や年表などから、ホメイニ師の偉大さが感じ取れたとともに、このホメイニ師の生家が他の観光名所とともに、イランの重要な見所としてもっと知られてもよいのではないか、という思いを抱きつつ、この偉人の生家を後にしました。

今回の旅の締めくくりに、地元のある小さなレストランで、イラン式の代表的な焼肉料理・キャバーブを食べました。日本では、どちらかといえばトルコ料理の1つとも言われるドネルケバブがよく知られているかと思われます。イランのキャバーブもこれに類似しており、一般的にイランでは鶏肉や牛肉、羊肉、魚などを適当な大きさに切り、串に刺して直火であぶることを、キャバーブにする、と表現しています。

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直火であぶる前に調味料や玉ねぎなどでマリネートされ、串に刺された肉類

今回訪れたレストランでは、いつでも適当な大きさに切って使えるよう、お店先に羊と思しき丸ごとの肉が吊るしてありました。このような光景は、日本の普通の飲食店ではあまり見られないのではないでしょうか。
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イラン式の代表的なキャバーブ定食では、ライスに生の玉ねぎ、キャバーブにしたトマト、ヨーグルトドリンク、もしくはコカコーラなどの炭酸飲料、ヨーグルト、そしてナンと呼ばれる薄いパンなどがついてくるのが一般的です。
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イランを初めとする中東式の焼肉キャバーブ(ケバブ)は、国ごとに若干呼び方が異なるものの、これらの地域における一大食文化を形成しているといってもよいのではないでしょうか。