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イランの古き都、テヘラン西部・ガズヴィーンの名所旧跡を訪ねて(3)

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<イランで最も小さいキリスト教会・カントゥル教会>

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<アミーニーの邸宅の内部>

前回まで2回にわたり、テヘラン西方のガズヴィーン市の見所や郷土料理、この地ゆかりの著名人などをご紹介してまいりました。今回は最終回として、そのガズヴィーン市内のほか、市外にまで少々足を伸ばして州内の自然の美景にも触れてみたいと思います。

イラン史上初の近代式ホテルと、名前のついた街路
ガズヴィーンには、いわゆる名所旧跡のほかにも注目すべき点がいくつかあります。それは、イランで初の近代的なホテルが造られた町であること、さらにイラン史上初の特定の名前のついた大通りがあることです。
まず、イラン初の近代式、ヨーロッパ式のホテルについてご紹介いたしましょう。このホテルはグランドホテルと呼ばれ、1910年から11年にかけて、ガージャール朝の末期に大地主シャープール・パールスィーによって建設されました。敷地面積はおよそ3000平方メートルに及び、通りに面した側は2階建てで、中庭側は3階建てとなっています。建築面での特徴としては、天井や階段をはじめ多くの箇所に木材が使われ、丸い柱がいくつも存在しているほか、レンガ細工や漆喰細工が施されているところもあることです。また、1921年には映画館も設けられ、1940年に火災による被害を受けたものの、1977年までは「イランの映画」という名称で営業していたということです。なお、このホテルの1階には18の客室があることが確認されていますが、1977年に再び火災の被害を受け、その後このホテルはそのまま残されています。
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<当時のグランドホテル>

 

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<現在のグランドホテル>

それから、ガズヴィーン市内にはイランで初めて特定の名前の付けられた通りがあり、この通りはセパ通りと呼ばれています。この通りは、サファヴィー朝時代、イランの首都がガズヴィーンに置かれていた時代に、タフマースブ王により建設されました。今から5年前には、この通り全体に石畳がしかれ、独特の景観を生み出しています。

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<昔のセパ通り>

 

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<現在のセパ通りの夜景>

「セパ通り」という標識もきちんと存在しています。
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また、この通りの南の突き当りにはイランでも最も古いとされる大モスクの1つが存在しています。そこでまずは、イランでも最大規模とされるこの大モスクに足を運んでみました。
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イラン最古のモスクの1つ・ガズヴィーンの大モスク
このモスクの前身は、イスラム伝来前のサーサーン朝時代の拝火教神殿だったとされています。現在のモスクは、イスラム暦192年に当たる西暦807年、当時イランをはじめとする広範囲を統治していた、アッバース朝の為政者ハールーン・アッラシードにより建てられました。このモスクはガズヴィーンで最も重要なモスクでもあったことから、モンゴル軍に注目され、破壊されましたが、その後修復が加えられ、4つのテラスを有する壮観なモスクとなっています。
さて、このモスクの入り口には大きなアーチがあり、さらに敷地内にはイラン国内でごく普通に見られるモスクのように、ブルーを基調としたドーム、2本のミナレットがあります。
Dome

2本のミナレットには、水色、桃色、白、黄色の化粧タイルの組み合わせにより独特の模様が施されていました。
Minaret

メインとなる建物全体は日干し煉瓦で出来ていますが、所々にブルーの化粧タイルでイスラム的な幾何学模様が施されています。
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いざ、敷地内に足を踏み入れてみると、セメントの下地に小さめの石が敷き詰められた石畳の歩道が続いており、さらに天井にはレンガと化粧タイルを巧みに組み合わせた幾何学模様がいくつも連なっていました。
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左右対称の幾何学模様が延々と続く天井を見上げ、クレーンもショベルカーもなかったと思われる時代に、既に当時の建築家がこのように高度な幾何学的なセンスを有していたことに驚かされました。

 

 

きらびやかなステンドグラス装飾を誇る「アミーニーの大邸宅」
続いて見学したのは、サファヴィー朝の末期からガージャール朝初期にかけて、ガズヴィーンの大商人モハンマド・レザー・アミーニーによって建てられた、アミーニーの大邸宅です。この邸宅の外観は、白い壁に覆われているものの、大きくどっしりした佇まいを見せており、いかにも大富豪が住んでいたと思しき雰囲気を漂わせています。
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ここも、見学者が絶えない様子で、入り口には既に中に入っている見学者のものと思われる靴が沢山ありました。一体、この建物の内部はどうなっているのだろうと、胸をどきどきさせながら靴を脱いで中に入ってみました。すると、絨毯の敷かれた廊下を通ると、大広間に出ました。奥行きは2,30メートル、天井までの高さは10数メートルはあるかと思われ、床には赤を基調とした、細かい模様の編みこまれた絨毯が敷かれています。
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とにかく、室内にふんだんに装飾が施され、壮麗でお見事!の一言です。美的センスや高尚な趣向が見て取れます。
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この大邸宅を建設し、寄進した大商人モハンマド・レザー・アミーニーの写真も飾られていました。
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白い壁の部分には、手の込んだ唐草模様の浮き彫りが施され、さらに隣の部屋とを仕切っているのは壁ではなく、アーチ型の色とりどりのステンドグラスです。それぞれのアーチには赤、青、緑、黄色による幾何学模様をあしらったステンドグラスがはめ込まれ、白い壁の部分にも、唐草模様を主体とした浮き彫りが施されています。
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さらに驚いたことに、天井にも複雑な模様が施され、多彩な配色を駆使して幾何学的な模様の中に草花や鳥の図柄が描かれています。また、広間に取り付けられているシャンデリアもまた豪華なもので、この空間の華やかさを増していました。
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tenjou2 Shanderia

なお、この建物は、コーランの朗誦会や、聖職者による説教の場として使用することを目的に、ハージー・モハンマドレザー・アミーニー氏により寄進されているということです。

イランで最も小さな教会「カントゥル教会」

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さて、ガズヴィーン市内には何と、イランで最も小さいキリスト教会として知られる、カントゥル教会があります。イランはイスラム教の国ではありますが、アルメニア系のキリスト教徒も存在するため、テヘラン市内を初め、北西部の町タブリースやオルミーエ、ジョルファなどには、アルメニア正教の教会が存在しています。しかし、このカントゥル教会は、第2次世界大戦中に正統派のキリスト教徒であるロシア人によって建てられました。当時、イランではガズヴィーンを経由して旧ソ連につながる道路を敷設するため、ロシア人の技術者が数多くイランに滞在しており、この教会はそうしたロシア人たちの宗教的な拠り所として造られたということです。また、このような小さな規模に造られた理由は、正統派キリスト教では、信者は起立したまま礼拝を行なうため、それほど大きなスペースが必要でなかったことであり、また建設作業を迅速に進めるため、複雑な装飾なしで簡素な造りになっています。

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<カントゥル教会の入り口>

興味深いことに、この教会の建物の礼拝室は、太陽が昇る東の方向に向かって礼拝するように造られており、出口は西向きに設けられています。
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その後、ロシア人労務者や技術者たちがイランを去ってからは、この建物は一時期ロシア領事館として使われていたということです。さて、この教会に足を運んでみますと、小ぢんまりとしたレンガ造りの建物が目に入ってきました。
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3つの階に分かれている部分の、一番高い所にスカイブルーのドームがあり、その高さは11メートルあります。そのため、この教会は鐘楼の教会とも呼ばれています。
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他にも、高さの低い白いドームが2つほどありました。
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この建物の全体の形は十字架の形になっており、西側に面した、切妻屋根のついた入り口から中に入る仕組みになっています。
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いざ、その入り口から入ると、白い壁に覆われた礼拝室に行き当たりました。壁には3つのアーチが掘り込まれ、東向きの中央のアーチが礼拝の方向を示す壁がんとなっており、そこには十字架が1つ置かれていました。
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壁の上のほうにあるこのしるしは、ロシア正教のシンボルだそうです。
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それぞれのアーチの上の方に銀と思われる金属で少々装飾が施されている他は、装飾らしいものは全くなく、本当に地味な造りです。現在、この教会の内部は当時のロシア人たちに関係すると思われる遺品などが展示されています。

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それから、この教会の注目すべきもう1つの点は、南側の敷地に2人のロシア人の墓が設けられていることです。
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向かって右側の黒い墓石の墓には、ロシア語で文字が刻まれており、これはかつてイランで道路敷設の作業に当たったロシア人技術者のものとされています。
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そして、左側にあるもう少し小さい石造りの墓は、第1次世界大戦時に飛行機の墜落により死去したロシア人パイロットのものだということでした。

クーヒン行政区の自然の絶景

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そして、今回の旅のフィナーレは、ガズヴィーン市内からさらに西方に向かったところにある、クーヒン行政区でした。ガズヴィーン市内から離れるにしたがって、次第に自然が多くなってきます。ガズヴィーンは、イランでも有数のとうもろこしと小麦の生産地であり、クーヒンに向かう途中にも小麦畑やとうもろこしの畑がみられました。青々とした小麦畑のところどころに、黄色い小さな花が咲いているところもまた、独特の美しさをかもし出しています。そして、少々起伏の激しい坂を何度か通り過ぎた後にたどり着いたのは、山々を背景に広がる緑と、耕された畑の土が幾重にも連なり、見事なコントラストを生み出している自然の絶景でした。

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五月晴れの青空のもと、爽やかな涼風がすうっと吹き抜け、しんとした大自然の空間に、かすかに野鳥の声が聞こえてきます。やはり人口が少ないせいでしょうか、かなり遠くのほうで畑を耕しているらしい数人の人以外は、人の姿は全く見られません。

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テヘランでは決して見られない自然の風景に、思わず何度もカメラのシャッターを切りました。通常、砂漠のイメージが真っ先に浮かんでくると思われるイランに、しかもテヘランから車で2,3時間ぐらいの地域に、このような知られざる景勝地があることは、本当に驚くべきことです。しかも、この地域では食用となる野草や薬草が取れるとのこと。帰りの車の車窓からは、摘み草をしている人々の姿を見かけました。こうして、数々の思い出を脳裏に刻み、ガズヴィーンを後にしました。
この州にはまだこの他にもこの番組ではお伝えし切れなかった見所がたくさんあります。その1つが、標高2000メートル以上の山岳地帯に存在する、アラムートの城砦です。この城砦も、ガズヴィーン州の名所旧跡を代表するものですが、今回は時間の関係で訪れることができなかったため、これについては別の機会に譲りたいと思います

ガズヴィーン州が誇る著名人

それから、ガズヴィーン州を語る上で欠かせない、この地ゆかりの著名人をあと2人、ご紹介いたしましょう。
1人は、イラン・イラク戦争で殉教したアッバース・バーバーイー空軍作戦副司令官(1950-1987)です。彼は、この戦争中にイラン南西部地域で戦闘機の操縦士として、3000時間以上にわたる飛行任務をこなし、殉教する前の2年間だけでも、60回以上の任務を果たしました。殉教する直前には、准将の階級を与えられており、また現在テヘラン北東部を17キロにわたって走る高速道路は、彼の軍人としての功績を称え、殉教者バーバーイー高速と名づけられています。

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そしてもう1人は、ペルシャ語を語る上で欠かせない、ロガトナーメと呼ばれるペルシャ語大辞典を編纂したアリー・アクバル・デホダー博士(1879-1956)です

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デホダー博士は、ガズヴィーンを出自とする両親のもと、テヘランに生まれました。このため、デホダー博士もガズヴィーンゆかりの著名人とされています。彼は、40年という長い年月をかけて、総ページ数が2万6000ページ以上、50巻に及ぶペルシャ語大辞典を編纂しました。この辞典には、基本的な語彙が20万語、合成語が60万語、地理や歴史に関係する語彙がおよそ8万語、そのほかにおよそ40万から50万に上る用例が収められ、最大規模のペルシャ語辞典とされています。また、現在テヘランにはデホダー博士の名前を冠したペルシャ語研究機関があり、ここでは外国人向けのペルシャ語教育も行われています。

これまで3回にわたりお届けしてまいりました、イランの古い都・ガズヴィーンはいかがでしたでしょうか。きらびやかなイランの王朝時代を演出し、数多くの著名人を生み出したガズヴィーンの魅力を、少しでも皆様に味わっていただければと思います。それでは最後に、今から80年以上前にこの世を去ったガズヴィーン生まれの詩人、アーレフ・ガズヴィーニー(1880-1934)の詩をご紹介し、このシリーズを締めくくることにいたしましょう。

ArefQazvini

我は、古より伝わりしガズヴィーンの数多の歴史と物語を聞けり
タフマースブ王はここに都を移し、ゆえにこの都の運は開けし
アッバースが王となりてこそ、栄華を極めたりけれ
はるか遠き国からも、数多の公使が来たりて留まりぬ
ガズヴィーンの名声と華やかさは天下一品、この都にあるもの全ては最高級