旅行

ペルシャ湾の真珠;常夏のキーシュ島(1)

飛行機の窓から臨むキーシュ島

海岸に面したスィーモルグ公園

ドルフィニウム公園でのイルカのショー

沿岸部に設置されたアーヴァー複合設備群

現在、メディアでは日々イランやペルシャ湾に関するニュースが盛んに報じられています。今まさに世界のメディアの報道の焦点となっているペルシャ湾は、石油や天然ガスなどが豊富に埋蔵され、イランやそのほかの湾岸諸国にとっての戦略的な地域でもありますが、その一方でこのエメラルドグリーンに輝く湾には、決して見逃せない観光名所も数多く存在しており、かなり前のこのレポートにてご紹介したゲシュム島もその1つです。しかし、このゲシュム島からはるか西には、キーシュ島という島も存在します。この島は、地図で見るとごく小さな島であるにもかかわらず、名所旧跡やお楽しみスポットに事欠かない、大変魅力ある観光地といえます。そこで、今月と来月の2回にわたり、ペルシャ湾に浮かぶイランの常夏の島で、ペルシャ湾の真珠とも評されるキーシュ島の魅力や見所をご紹介してまいりたいと思います。

ペルシャ湾におけるキーシュ島の位置

キーシュ島全体の航空衛星写真

キーシュ島のあらまし

キーシュ島は、イラン南部ホルモズガーン州バンダルレンゲ行政区に属し、バンダルレンゲ港湾から約90km、イラン本土から約15km離れたペルシャ湾沖に位置しています。テヘランからは1047km離れており、キーシュ島へのアクセスは空路が主流になります。この島の中央にはキーシュ国際空港があり、イラン国内の各都市の空港と結ばれています。なお、ペルシャ湾に面した港湾都市バンダル・レンゲやバンダル・チャーラクとの間には、船の便も運航しています。

キーシュ島の総面積はおよそ90km2で、総人口は2016年の時点で2万5000人ほどと推定されています。年間の平均気温は26℃という常夏の島でもあり、年間降水量は約160mmと非常に少なくなっています。

この風光明媚な島は、地理的にはエメラルドグリーンに輝く美しいペルシャ湾に囲まれ、年間を通して快晴が多い気候であることから、イランでも有数のリゾート地とされています。そのため、当然ながら観光業が盛んであることは言うまでもありませんが、そのほかにもこの島の伝統的な産業として漁業、海運業、貿易業が知られています。さらに、今から数百年前には真珠の養殖が盛んだった時期もあったとされています。キーシュ島は中世には港市国家として栄え、この島の北部には当時の遺跡も残されていますが、これについては後ほど詳しくご説明することにいたしましょう。

キーシュ島の歴史

イラン史上最長かつ最大規模とされるアケメネス朝(前550-前330)が起こり、それまでに支配したことのある領土をすべてイラン領として以来、キーシュ島の重要性が増すことになります。

アケメネス朝時代のキーシュ島は、海上貿易の中心地であったとともに真珠の生産地とされていました。さらに、古代ギリシャ・マケドニアのアレクサンダー大王(前356-前323)の攻撃により、アケメネス朝が滅亡した後のセレウコス朝(同大王の一族・後継者による王朝)、パルティア王朝、そしてペルシャ人による史上2番目の王朝・サーサーン朝の各時代においても、この島はしかるべき重要性と位置づけを維持していました。

アレクサンダー大王(前356-前323)

その例として、アレクサンドロス大王に使えたマケドニア王国の将軍ネアルコスは、ペルシャ湾探検の任務を言い付かり、アラカトラという名称の島を発見し、これを吉兆としたとしていますが、史料によればこの島こそは実はキーシュ島だったとされています。

キーシュ島は、ギリシャの文献においてはアラカトラ、カームティナ、アワールクタ、フィーンなどの名称で呼ばれ、マルコ・ポーロの「東方見聞録」ではキシ、イブン・バトゥータの「三大陸周遊記」ではカイスと記されています。

西暦641年のニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝最後の王ヤズデギルド3世が殺された後、イランの王族たちはすべてアラブ民族の手に落ち、イランはアッバース朝カリフ政権の支配下に置かれることになります。そこでアラブ人が初めて征服した島はバーレーンであり、その後彼らは次第にイランの島々に勢力を伸ばしていきました。そうした中でも、キーシュ島は特に交易の中心地としてアラブ人に注目され、特に10世紀末から11世紀にかけて、多数のアラブ人らがこの島に移住して来ました。そして、おそらくはこれらのアラブ移民により、キーシュと名づけられたとする説が有力とされています。

10世紀末にこの地域で発生した大震災により、ペルシャ湾の重要な交易都市スィーラーフ(かつてのイラン・ブーシェフル州の都市)が破壊されたことから、キーシュ島はスィーラーフに代わってペルシャ湾の海運・交易の中心都市となります。この当時、この島はイラン系山岳民族クルド人の一派、またはカスピ海南西の山岳地帯に住むダイラム系の部族集団の支配下に置かれました。

12世紀から13世紀前半にかけては、スィーラーフからの移民であるカイサル家がこの島を支配することになります。当時の支配者はインド洋西海域の海運と交易に強い影響力を持っており、アラビア半島南端の港湾都市アデンをも支配していました。この時代のキーシュ島の重要な産業の1つが真珠の生産であり、13世紀には海上交易と真珠の採取権を巡ってイラン南部を支配していたホルモズ王国と対立しました。

13世紀末からは、キーシュ島の支配権はサワーミリー家に移りました。キーシュ島とホルモズ王国は、ペルシア湾やインド洋の海運と交易を巡って激しく争いますが、1324年ごろにキーシュ島はホルモズ王国に併合されます。その後16世紀からは、この地域に進出してきたポルトガルの支配下に置かれますが、サファヴィー朝時代にイラン軍がポルトガルを駆逐してからは、キーシュ島はイラン領となりました。

その後のガージャール朝時代には、当時の国王ナーセロッディーンシャーが、モハンマドハーン・ガヴァーモルモルクという人物に、ペルシャ湾での活動の功績を称えてキーシュ島を贈与しました。そして、この人物からさらに別の人物に売却された後、パフラヴィー王朝がこの島の地政学的な重要性に注目し、この島を買収しています。1972年にはキーシュ島開発機構が創設されました。その翌年からは、この島の北東部にあった2つの村の村民をほかの地区に移転させ、その跡地に近代的なホテルやカジノ、フランス的な市場や別荘、宮殿などが建設されています。そして、1977年にはパフラヴィー王朝政権の関係者や、イラン駐在の各国大使ら、国内外の投資家の立会いのもと、イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機コンコルドの第1便が乗り入れ、キーシュ観光地区が開設されました。

オーシャン・ウォーター公園

大都市にも見劣りしないショッピングセンター

1979年のイラン革命後しばらくたってから、キーシュ島は一般人の旅行やショッピング用地区として再開されました。さらに1986年に自由特別区となってからは、様々なショッピングセンターや市場が設けられ、港湾や空港が拡張されるとともに、デラックスなホテルも建設され、輸出入向けの産業やビジネスも益々盛んになり、現在に至っています。また、この島には海上に設置された5ツ星のスイートホテル、トランジ・ホテルもあり、人気を集めています。

それでは、ここからはキーシュ島の数ある名所の中でも特に注目したい名所について1つすつご紹介してまいりましょう。

ハリーレ都市遺跡

ここは、およそ800年の歴史を持つ中世時代の都市遺跡で、総敷地面積はおよそ120ヘクタールに上ります。専門的な調査によれば、かつて非常に多くの人々が居住し、繁栄していたものの、600年ほど前から人が居住しなくなったと予測されています。ここには大浴場やモスク、ガラス製造の工房、旧式のカナートなど、都市建築の跡が残されています。ハリーレの大都市は沿岸地帯に建設されていますが、これは漁業や真珠の生産、珊瑚を使った産業に好都合だったからではないかと推測されています。

この遺跡の敷地内には、イラン最古とされる大浴場の跡が見られます。総面積は500m2ほどで、イルハン朝時代からティムール朝時代のものとされています。

さらに、この遺跡の敷地内には、「貴族の館」と呼ばれる石造りの建物もあります。この館は、ペルシャ湾地帯の伝統的な高級家屋の一例とされ、建築学の面ではイラン中部イスファハーン、ヤズド、カーシャーンなどのイラン高原地帯に見られる伝統的な家屋に類似しているということです。また、この建物に使用されている星型の化粧タイルは、イルハン朝時代の重要建築の内装に使われている化粧タイルに似ているとされています。この種のタイルがキーシュ島には本来存在しないものであることから、これらのタイルは島外から持ち込まれ、またこの館の主はこの都市の裕福な大商人だったと推定されています。

また、敷地内にはいくつもの通過用の扉らしいものがいくつも見られますが、これらの使用目的に関しては緊急時の非常口に使われていたなどいくつかの説があり、今なお正確な使用目的は不明とされています。

キーシュ島付近で座礁して、現在もそのまま残る「ギリシャの船」

この船舶は、1966年7月25日にイランから戻る際にキーシュ島南西で座礁して以来、そのままそこに残されている蒸気貨物船です。この船舶はもともと、1943年にイギリス・スコットランドの第2の港町グラスゴーにて、ウィリアム・ハミルトン社により「エンパイヤー・トランペット号」として製造されました。なお、キーシュ島付近で座礁したときの名称はKoulaFとされています。また、製造された当初は7061トンで、全長は136mにもおよび、持ち主がイギリス人やイラン人だったときもありましたが、最終的な持ち主はギリシャ人だったということです。なお、この船舶の座礁原因としては濃霧のほか、キーシュ島に灯台がなかったことなどが指摘され、懸命な救助活動もむなしく座礁し、引き上げ作業に莫大な費用がかることから、そのまま現場に取り残されたままになったとされています。

カーリーズ地下都市遺跡

カーリーズとは、元来はペルシャ語で地下水路・カナートを意味します。ここは、キーシュ島のカナートとしておよそ2500年にわたり島民に淡水を供給してきたとされています。現在では、総面積がおよそ1万m2にも及ぶ観光名所としての地下都市に様変わりし、敷地内には手工芸品市場やレストラン、写真館、博物館、喫茶店などの設備が整っています。ここは、地下およそ16mの深さにあり、天井がサンゴや貝などで覆われていることは、この地域の地質学上の年代の古さを物語っており、その一部は5億7000年前にまで遡ると言われています。

カーリーズ地下都市への入り口。

敷地内の至る所に、見学者がくつろげるように桟敷や椅子、背もたれようクッションなどが用意されています。

内部構造も複雑で、多数の通路や室が存在しており、見学しやすいようにライトアップされています。

当時の生活の様子をしのばせる生活器具、資料などが展示されているコーナーもありました。

地下のみならず、地上階も複数回に分かれており、当時としてはかなり高度な地下都市が発達していたことが予測できます。

史跡の見学の合間に、この風光明媚な島の大自然をもぜひ楽しみたいものです。キーシュ島の大自然といえば、やはりなんと言ってもエメラルドグリーンに輝くペルシャ湾に面した沿岸、さんご礁の海岸ではないでしょうか。それは、さながら沖縄の美ら海をも連想させる幻想の世界といっても過言ではないと思います。潮風に吹かれ、美しいペルシャ湾を眺めながらの散策を、ぜひお楽しみいただければと思います。

それから、もう1つ注目したいことは、ペルシャ湾がこの上なく静かで美しく、様々な水生生物が豊富に存在することから、湾内の広範囲にウミガメが生息していることです、キーシュ島の特に南西部海岸には、特に日没時を中心にアオウミガメなどの大型の亀がやってくるということです。ウミガメは海綿、クラゲ、軟体動物や甲殻類の幼生などを餌とし、エコシステムの維持に非常に重要な役割を果たしているといわれています。なお、キーシュ島には潜水夫の案内による湾内でのウミガメ見学ツアーもあるそうです。

そしてもちろん、産卵期にはウミガメの産卵が見られるということです。

樹齢500年以上を誇る「緑の木」(ベンガルボダイジュ)

さて、キーシュ島の大自然の名物には、エメラルドグリーンの海のほかに、樹齢500年から600年と推定されているベンガルボダイジュの大木があります。この種の樹木は、イラン南部地域に多く生息していますが、この大木は「緑の木」という通称で親しまれ、地元の方言ではルールと呼ばれています。なお、地元民の間では、この大木は吉兆をもたらすものとされ、この木の枝にヒモやリボンなどを結んで願い事をすると、その願いがかなうと言われています。

キーシュ民族の館(キーシュ民族博物館)

この民族館は、およそ200年の歴史を持ち、キーシュ島の旧市街の一角にあります。また、地元民独自の伝統的な方式で建てられ、一時はキーシュ島のある有力者が所有していましたが、現在ではこの島の人々の生活や歴史を物語る民族博物館となっています。

キーシュ民族博物館の入り口。

中庭や室内はいずれも、海に囲まれたこの島独自の雰囲気を漂わせています。天井にはヤシの葉が使われています。

室内に展示されている品々から、島民の伝統的な暮らしぶりが見て取れます。

ドルフィニウム公園複合施設

キーシュ島南東部に位置するこの複合施設は、総面積がおよそ100ヘクタールにも及び、中東でも有数の行楽地とされています。ここは、イランで唯一のイルカ飼育園であり、ほかにセイウチやアシカ、ペンギンなども飼育され、特にイルカとアシカによるショーが有名です。

また、ショーのみならず、身近にイルカに触ることもできます。

さらには野鳥園や爬虫類の飼育コーナーもあります。

ここまで、数多くのキーシュ島の見所をご紹介してまいりましたが、キーシュ島の見所、魅力はまだまだ沢山あり、ここからさらに周辺の島に足を伸ばしたり、マリンスポーツなど独自の体験をすることも可能です。これらにつきましては来月のレポートで詳しくお伝えしたいと思います。どうぞ、お楽しみに。