世界最大とされるヌーシャーバード地下都市の内部の様子(1)
地下都市の内部の様子(2)
地下都市の内部の様子(3)
イラン中部初の古代文明都市遺跡・スィアルクの丘(1)
7000年の歴史を誇るスィアルクの丘の敷地内
スィアルクの丘の出土品の数々
イランは本当に長い歴史を持つ、そしてまだよく知られていない見所の多い国です。イランにある名所旧跡の中には、すでにユネスコ世界遺産に登録されたものも沢山ありますが、世界遺産にこそ登録されていなくとも一見の価値ある、またはいずれ登録されるにふさわしいと思われる見所が、イランには数多く存在しています。今回は、そのような名所旧跡の中でも、知られざる世界最大規模の地下都市・ヌーシャーバード遺跡、そして7000年の歴史を誇り多数の遺物も発掘されているスィアルクの丘という、イラン中部の2つの見所をご紹介してまいりましょう。
ヌーシャーバード遺跡は、2004年に地元民により発見され、2006年にイランの国有文化財に指定されました。現時点では、ここは1400年前のサーサーン朝時代に造られたと推定され、世界最大規模の地下都市と言われています。しかし、まだ発見されてそれほど経っていないことから発掘研究がそれほど進んでおらず、今後の研究調査の結果が待たれる存在となっています。実のところ、イランにそのような場所があるとはそれまで全く知らず、ある知人の伝で偶然この遺跡を見学する機会に恵まれました。
地図で調べてみると、この遺跡は中部イスファハーン州カーシャーン市近郊のアーラーンヴァビードゴル行政区の中心地・ヌーシャーバードにあり、テヘランからは車で4時間ほどのところにあるとのこと。カーシャーンと言えば、もう何年も前のちょうどこの時期、バラ香水の生産シーズンの盛りに見学したことが思い出されます。そのカーシャーンのそばに、そうした以外な見所があると知り、バラ香水の購入目的も兼ねて足を運んでみることにしました。当日のルートは、以下の地図のとおりです。
さて、ヌーシャーバード行政区に入ると、地下都市への方角を示す看板が立っているのが分かりました。
もっとも、地下都市というからには、砂漠の真ん中にでもあるのだろうか、などと考えていたところ、到着してみたら周囲は地元のごく普通の民家や商店などが立ち並ぶ居住区域でした。車を降りて家々の立ち並ぶ区域の路地を10分ほど歩いたところで、地下都市の入り口に着きました。聞けば、この地下都市には2つの入り口があって、この入り口はその第1入場口だとのこと。この地域が乾燥した気候区分に属しており、またちょうどバラ水のシーズンとあって、入り口付近ではバラ水の入った甘い飲み物を、見学者向けに配布しています。
渡された出来立ての冷たいドリンクで喉を潤し、中に入ってみました。急な階段を降りたところで、係員さんが入場券を販売しています。
さて、入場券を買って本筋の順路に入る前に、その左脇にある大きな貯水槽に案内されました。
この貯水槽は、今からおよそ500年ほど前のサファヴィー朝時代に造られたとされ、150万リットルもの水を備蓄できるとのことです。その天井には、石とレンガで造られた大きなドームが乗っています。
ここから、地下都市の本格的な見学用の順路に入ります。さて、中には何が待ち受けているのでしょうか?
内部には、至る所に天井の低い土壁に覆われた通路が、迷路のようにくねくねと続いており、階段のある通路もあります。照明は設置されていますが、足元に注意する必要があります。
狭い通路や急な階段のある箇所もあります。
とにかく、内部構造は迷路のような通路が縦横無尽に続いているといった感じです。そのため、ここは、人々や品物の安全な保管場所や避難場所として、外敵の攻撃や盗賊などからの防衛を目的とした、現在で言うところのパッシブ・ディフェンスの拠点として使われていたということです。
この地下都市には、オウイーの地下都市とも呼ばれ、地下4mから18mの深さに造られています。オウイーとは、現地の方言でのため息の擬声音を意味します。それは、この地下都市がこれほど入り組んだ複雑な構造のため、はぐれてしまうとなかなか互いを見つけ出せないため、中を行き来する人々が歩き疲れて出す、ため息の声がそのまま名称になったということです。
また、ガイドの方のお話では、ここは200年ほど前のガージャール朝時代までは恒常的に避難・防衛用施設として使用されており、さらにここが地下都市として最盛期を迎えていたのは、1000年ほど前のセルジューク朝時代、その後のイルハン朝時代だと推定されているとのことでした。その理由として、特にイルハン朝時代にはここをはじめとするイラン全域がモンゴル軍に襲撃され、国全体が情勢不安に陥っていたことから、こうした避難・防衛用の場所が必要になったことを挙げていました。
上下の穴・スペースへの移動ができるよう、至る所に井戸のようなものが掘られ、梯子がかけられています。ここはまさに、日本でいうからくり式の一種の忍者屋敷のようです。地下都市全体を行き来するには、水平方向の通路のみならず、中には5m近くもあるこうした縦のルートを何度も行き来しなければならず(通行可能な進路がU字型になっている)、またすでにご覧のように幅が狭かったり、天井が低かったりする箇所も非常に多く存在します。
内部がこのような造りになっているのは、砂漠地帯に位置し、外敵に襲撃されやすい地理条件にあるこの地下都市に、万が一外敵が侵入してきた場合、都市内を武器などを携帯した状態で自由に動き回れないようにする、という目的によります。
そして、以下の写真のように井戸(縦の通路)の入り口に石の蓋がかぶせてある箇所もたくさんあります。これは、侵入者に見つからないように隠れるほか、侵入者の背後からこの石の蓋で攻撃するという目的でもあります。
この地下都市内には、至る所に照明の設置場所がありますが、これらの照明に利用される燃料は牛やヒツジなどの脂だとのこと。1m間隔で設けられているこれらの照明の一部は、700年ほど前のものだそうです。
しかし、この都市は生活の便宜もきちんと考えて設計されており、今で言うトイレなどの衛生設備用スペースや食物などの貯蔵庫と見られるスペースも設けられています。
換気用の通気孔も数多く設けられており、地下にあるといえど、長時間いても全く息苦しさは感じません。本当に、この地下都市はあらゆる便宜を考えて非常に精巧に造られているものだと感心しました。
そして、ここに人が住んでいたことの証である人骨が発見された箇所もありました。
この地下都市の第1の入り口から中に入ったときの様子は大体こうした感じでした。
もう1つの入り口に行くため、一度外に出てみると、イランの乾燥地帯に特有の天然風クーラー・採風党として有名なバードギールがあるのに気づきました。地下都市内の気温を快適に保つために、効果的な役割を果たしていたと思われます。しかし、それにしても今から相当前の当時に、すでにここまで生活の便宜を考えた技術が発達していたことは、本当に驚くべきものです。
さて、第1の入り口を出て、民家や小さな商店などが連なる路地を5分から10分ほど歩いたところに第2の入り口がありました。
この入り口から入ってみた中の様子も、先ほどの地下都市とそれほど変わらず、土や石でできた狭い通路や数多くの石室と土室が延々と続く構造になっています。
この地下都市は、冒頭でも触れたように発見されてまだ日が浅いことから、それほど研究発掘が進んでいないとは言われているものの、このような乾燥地帯に、しかも1400年も前にこれほど精巧に造られた地下都市があることに大変驚かされました。今後さらに研究調査が進み、この地下都市のさらに詳しい全容が明らかになることを期待しながら、ヌーシャーバードを後にしました。
さて、発見後間もない地下都市を出発して、次に向かったのはそこから少々離れたスィアルクの丘でした。ここは、以前にご紹介したフィーン庭園の近郊にあり、正確には古代メソポタミア地域に特有の、日乾煉瓦を用いて複数の層に組み上げて建てられた巨大な聖塔であるジッグラト(高い所,の意)の跡が残っているところです。
スィアルクの丘のジッグラトの復元予想図
敷地の入り口を入ってすぐのところには、この遺跡に関して説明したペルシャ語と英語の案内板があり、ここで発掘された大きな土器が展示されています。
敷地内の案内板によれば、この遺跡はおよそ8000年の歴史を誇るとされています。
今からおよそ8000年ほど前、イランの人々は農耕生活を営むために、水利や気候、地理的条件のよりよい地域への移住を余儀なくされました。そうした人々の目的地となったのが、まさにスィアルクの丘のあるこの地域だったということです。多くの人々がここに移住してきたことにより、この地には彼らによる大規模なコミュニティが形成されました。現在残っているスィアルクの丘は、今で言う宗教施設、すなわち人々が神を崇める場所や祭壇として粘土質の硬い土で造られたものです。また、当時のそうした宗教施設は全てピラミッド状になっており、スィアルクの丘もこれに倣ってピラミッド状に造られていました。
その後数千年にわたり、この丘の存在は知られないままとなっていましたが、今からおよそ80年前、カーシャーンの平原や農地が洪水に見舞われたことから、この一大遺跡が発見されることになったのです。そして当然ながら、カーシャーンの地におけるこれほどの規模の古代文明遺跡の発見のニュースは、瞬く間に国内はもとより世界にまで広まり、各地から考古学発掘隊が次々にここを訪れ、発掘作業が進められています。なお、この丘に関しては、1933年、34年、そして37年の3回にわたり、フランス・ルーブル美術館の考古学者ロマン・ギルシュマンが率いるチームによる発掘調査が行われています。
ロマン・ギルシュマン率いる発掘隊
この丘は、その構造上から北丘と南丘に区分され、この2つの丘は互いに600mほど離れています。このうち、北丘はこの古代遺跡のうちで最も古い部分とされ、その歴史は7500年前にまで遡るとともに、古代人の建築芸術が見事に具現されています。北丘では、高さが12mにも及ぶ数階建ての建物の跡が見つかっていることによります。また、ある時代の建物がその前の時代の建物の廃墟の跡に建てられていることから、この地には複数の時代にまたがって人々が生活していたといわれています。さらに、ここで見つかった5階建ての建物からは、金属や陶器、窯業、レンガ製造などに関する重要な道具などが発見されています。これらの発掘物からは、この地域での人々の暮らしの中に高度な産業や進歩があったことがうかがえます。そして、注目すべきもう1つの点として、ここでブタやイヌ、ウマの死骸が発見されていることから、イラン高原で初のウマの存在が確認されたことが挙げられます。
また、南丘はこの遺跡内で最も最近に見つかったもので、その歴史はおよそ5000年前のものとされ、城砦文明の丘として知られており、この文明はこの地域で建築や壺などの焼き物作りが盛んであったことを物語っています。この遺跡を代表する、4700年前のものとされるジックラトも南丘の高台に位置します。そしてここは、この地域で線文字が発見された事実に関する初めての痕跡が見つかった場所でもあります。古代オリエントで栄えたエラム王国との人々との交流により、この地域にはエラム文字が広まったということです。
南丘で出土した発掘物には、ウマなどの動物や太陽の図柄をあしらった壷、長い管状の急須のようなもの、非常に古い墓、鉄製の槍や剣といった武器などが挙げられます。
この遺跡内では、エラム王朝時代以前のものとされるデザインや記録なども見つかっています。
残念ながら、この丘の最上部はエラム王国の襲撃により完全に破壊され、大量の土の中に埋もれてしまっているということです。現在までに行われた調査によれば、この丘はおよそ1500年間は無人状態で放置され、その後紀元前4世紀ごろに新たな部族がここを居住地に選んだ、とされています。
まだまだ発掘作業中とあって、至る所に足枠がかけられているものの、その敷地の広さや、砂と土、石でできた丘が延々と続いている様子は、ここにかつて聳えていたとされるジッグラトや古代都市の偉大さを感じさせます。
敷地内にある墓(日本で言う古墳)の1つ。これはA墓と呼ばれ、およそ3500年前のものとされ、南丘からおよそ200mのところにあり、現在ではその上に大きな通りができています。
B墓と呼ばれる敷地内のもう1つの墓。これは3000年の歴史があるとされ、当時その上には庭園や農地があったということです。
開所時間中には、多数の見学者が訪れています。
多数の木の板を並べて造った順路を、足元に注意しながら進む必要があります。
係員の方のお話によれば、人々が居住していたこの地域は、テチス海 (Tethys Ocean, Tethys Sea) と呼ばれる、パンゲア大陸の分裂が始まった約2億年前ないし約1億8000万年前から、新世代第3世紀まで存在していた海洋の残跡の近辺に立地しており、海洋の枯渇と肥沃な土地の出現により、高地に住んでいた人々がここにやってくるようになった、ということです。
また、この地域の人々の住居は、当初はアシや樹木の枝などを組み合わせただけのあばら家だったのが、次第にそこへ泥を塗りつけたり、また土壁を造るようになり、その後はレンガの使用が急速に広まったということです。以下の写真は、当時の人々の住居と見られる部分の入り口です。
この敷地内では、ここに居住していたと思われる人々の一部の人骨が発見されており、発見された現場で、そのときの状態のままで展示されています。
なお、この地域の人々は、レンガや石畳の敷かれていない室に、屈葬という形で死者を葬ったとされています。また、この遺跡で発見された人骨の一部は、副葬品とともに見つかっており、それらの副葬品はこの遺跡の敷地内に併設されている資料館のほか、フランスのルーブル美術館やイラン国立博物館などに展示されているということです。
この遺跡の敷地の入り口には、資料館が併設されており、ここで発掘され出土した装飾品や人間をかたどった像など、様々な品が展示されています。これらの品々は、当時の人々の生活で実際に道具として使用されたものであると同時に、彼らの風俗習慣をを如実に物語るものです。
しかし、イラン人の純粋なアイデンティティを反映するこれらの発掘品の一部は、一部の売国奴や詐欺業者などにより略奪され、ブローカーによって国外に持ち出され、他国に買い取られてその国の名誉として悪用てしまうという憂き目に遭遇しています。
ですが、イランを初め、世界のいずれの場所で古代遺跡が発見されようとも、それらは略奪や利潤目的の売買などから厳密に守られる必要があります。それは、こうした遺跡や発掘品の破壊や略奪は、古代人やその子々孫々のアイデンティティが失われることを意味すると思われるからです。今回、イラン中部の2つの古代遺跡を見学し、遺跡や発掘品がその当時の人々のアイデンティティや文明を示すものであるとともに、それを後世の人々にまで伝えるべく、しっかり守るべきものであることを痛感させられました。
閉場時間となる夕方6時まで、敷地内にあふれる古代文明の香りを満喫し、帰路に着きました。
今後も随時、イランの名所や見所をご紹介してまいります。どうぞ、お楽しみに。