旅行

特別レポート;イラク巡礼体験記(2)

聖地カルバラーのイマーム・ホセイン霊廟

多種多様な香料を販売するカルバラー市内バザールの香料店

イマーム・ホセイン霊廟内に詣でる女性巡礼者

アラブ系とみられる男性巡礼者

前回に引き続き、このレポートではイランの隣国・イラクへの旅行体験記をお届けしてまいります。メディアやニュースで取り上げられるイラクのイメージは、どちらかといえば、「戦争」「怖い」といったものが多いのではないかと思います。そのような状況で、皆様は先月のレポートをお読みいただき、イラクという国についてどのように感じられましたでしょうか。イスラエル・パレスチナ情勢が世界の注目を集めている昨今、これらの国やイラン、そしてイラクなどを含む中東関連のニュースは今なお、残念ながらあまり明るいものではないというのが現状かと思われます。

そうした中であえて、日本人にそれほど知られていないと思われるもう1つの中東の国・イラクを、限られた時間の中でごく一部ではありますが、去る3月末に一日本人として旅してまいりました。今月は前回ご紹介したイラク旅行の続編として、そのクライマックスの1つでもあるイスラム教シーア派のもう1つの聖地・カルバラーの様子を写真とともにお伝えしてまいりましょう。

夜間にライトアップされたイマーム・ホセイン霊廟

前回は、初のイラク訪問の到着地・ナジャフ市でのイマーム・アリー霊廟の見学を終え、車でもう1つのシーア派の聖地カルバラーに到着したところまでご紹介いたしました。ちなみに、ナジャフからカルバラーまでは車で1時間少々かけて、ナツメヤシの木立が立ち並ぶ街道を車で北上しました。ナジャフ~カルバラー間をつなぐ街道

ちなみに、この時すでに日差しが相当に強く、気温はすでに30℃を超えていたとのことですが、日本と違って湿度が低いため、比較的しのぎやすく感じられました。

イラクのもう1つの聖地カルバラーにて

カルバラーに着いたのは日没までもう少しという時でした。とにかく今朝テヘランを出発し、ナジャフ市を経由して、カルバラーに到着したばかりということもあり、まずはホテルで一晩ゆっくり休み疲れを癒してから、明日ここでの最大の目的地であるシーア派3代目イマーム・ホセイン霊廟を見学しようということになりました。

カルバラー市内の橋げたの下が、車で到着する巡礼者の降車場となっており、橋の茶色で囲った部分にはアラビア語で「イマーム・ホセイン橋」と書かれています。

ホテルに荷物を置いてシャワーを浴び、一休みしてから、まずは夕方から夜にかけてホテルの近辺を散策してみました。同じシーア派イスラム圏の隣国ということもあり、イランの町の様子と何となく似ている雰囲気はあるものの、やはりイランとは微妙に違った様相を呈しています。確かに、イラン人巡礼客は多いものの、買い物など日常の場でやり取りされる言語はアラビア語であり、前回のナジャフ市と同様に完全なアラブ圏の環境に入ったと感じました。

それから、ラマダン中ということもあり、日没後にその日の断食を終えて食べる夕食・イフタ―ルを街中で人々にふるまうため、その準備をしている光景も見られました。ホテル近辺の路上で、絨毯やビニールシートを敷き、ハーブ野菜などの食材を運ぶなど、断食後の一般向け会食の準備が進められる光景も見られました

ホテル前の道を少々歩いて、霊廟に通じる道路に出てみると、ここにも大きな一大バザールが形成されていました。子供向けに色とりどりの風船が売られ、人々は思い思いに往来し、商品を買い求めていきます。

大勢の人々が行きかい、市場は活気にあふれています。屋外で、大量の生地が売られています。やはりここは聖地とあってか、女性の服装も頭からすっぽりと被るチャードル姿の人々が多く、ラマダン中ということもあり、日中は人目につく場所で飲食する姿は見られませんでした。ですが、人々の往来や買い物は非常に盛んです。そしてもちろん、昼間からここにある看板的存在のイマーム・ホセイン霊廟に足を運ぶ人も大勢います。

そして日没を迎えると、街中を往来する人々に加えて、その日の断食を終えての夕食・イフタール食を路上でとる姿も見られました。

そして、至る所にイフタール食を配布する場所が設けられ、通行人に盛んに軽食などが振舞われています。聖地のある町ですから、やはり信心深く断食を忠実に履行する人が多いようです。

深夜になっても、大勢の人々が道中を行き交っています。

商店街にもネオンサインがあふれています。

有名な巡礼地とあって、霊廟の周辺にはホテルなどの宿泊施設も数多くあります。個人で巡礼旅行に行く場合でも、あらかじめ予約していなくとも、宿泊場所を探すのにそれほど困らないようです。ちなみに、この写真の中央に見られる赤い文字のネオンは、アラビア語でホテルを意味します。ただし、1つ気づいたこととして、交通ルールはまだそれほどきちんとしていないようでした。この写真にもあるように、人通りの中をバイクが通過することも多いため、街中を歩く場合は特に注意したほうがよさそうです。

さて、日没後飲食が解禁されたこともあってから、別の意味で「夜はこれから」とばかりに市場や商店もさらに活気づき、人々の往来もさらに増します。ここで本格的に、街中のある伝統的な市場・バザールをのぞいてみました。

とにかく、いろいろな種類の商店が延々と軒を連ねています。それぞれの店舗のスペースは限られているものの、商品がびっしり並んでいます。

様々な種類の香料や薬草の販売店。そのほとんどは、おそらく日本ではあまり見られないのではないでしょうか。

ケチャップなどのソース類と思われる液状の調味料などに加えて、店頭に並べられているこのカラフルな液体はなんと、食器洗い用の洗剤だそうです!

真空パック詰めのナツメヤシに加えて、ナツメヤシの抽出液もプラスチックのボトルやビニール袋などに詰めて販売されていました。イラクのお土産の1つとして、ナツメヤシがお勧めです。

精肉店のお店先には、牛や羊の大きな肉塊が吊り下げされているほか、鶏もも肉に加えて、牛の足まで売られていました。このような光景も、まず日本では見られないと思われます。

クルミをふんだんに使った、相当に甘味が強いと思われるお菓子が、切り売りで店頭に並べられていました。前回のナジャフ市と同様、ここにもこうしたお菓子屋さんは非常に多く、どうやら、イラクの人々も相当に甘いものが好きなようです。それにしても、1切れがかなり大きいようですが!

狭いスペースで、アラブ式の男性用の服を販売するお店もありました。

宝石店もバザール内には非常に多く、地元の人々の間では装飾品もかなり好まれているようです。日本の宝石店と比べても、決して遜色ないように思われます。

多数の商店が軒を連ねるバザール内をそぞろ歩きしていると、ある店舗の店主さんからお茶を勧められました。遠い外国に来て、見ず知らずの人からこのようにおもてなししてもらい、ふっと心が和らぐのを感じました。

実はここで、なんとイラクに移住して17年が経過し、現在はここカルバラーで女性用のヘア・ケア製品や化粧品の販売店を営む在留イラン人・ヤーセルさん(仮名)に話を聞くことができました。

Q.イラクに移住したきっかけはどんなことだったのでしょうか?

A.結論を先に申し上げれば、私の両親がイラク生まれであることが大きいと思います。私自身はテヘランに生まれ育ち、学校教育はすべてイランで受けました。私の両親も先祖はイラン人なのですが、イラクで生まれています。このため、私は子供のころから家庭でもペルシャ語に加えて、アラビア語も使っていました。イラクがサッダーム・フセイン政権下にあったとき、サッダームはイラク在留のイラン人に厳しい制限を課し、ついにはイラン人を全員国外に追放してしまいました。そのため、私の両親はイランに渡り、そこで私は生を授かります。私が学校教育を終えてからサッダーム政権が崩壊し、イラン人にとっても住みやすくなったので、両親は出生地のイラクに戻ることを決意し、私も両親とともにイラクに移住し、現在に至ります。

Q.イラクでの生活はいかがですか?

A.私にとっては非常に住みやすいと思います。子供のころからアラビア語に親しんでおり、イラクでも言葉には不自由していません。宗教もイランと同じシーア派の人々が大半を占め、言葉こそ違えどイランとの類似性も大きいです。それに、陸の国境を隔てた隣の国同士ですし、私は両親と同様、イランとイラクの両方の国籍・パスポートを持っているので、両国間の往来は非常に楽です。またイランにおじやおばなど親戚もたくさんいて、いつでも好きな時に会いに行けます。外国からも物資が自由に入ってきますし、イランやほかの国からの巡礼客なども多く、治安もよいと思います。私にとっては、2つの祖国があるような感じですね。

Q.日本人の皆様にメッセージをお願いします。

A.確かに一時期は湾岸戦争など、本当に騒然としていた時期もありましたが、今では大きく状況も変わり、特にカルバラーやナジャフなどの聖地があることから、巡礼地へのイスラム教徒の訪問を初め、非常に多くの外国人がイラクを訪れています。宗教の聖地もあることから犯罪も非常に少なく、治安も安定しています。さらには、古代文明の発祥地である美しいチグリス・ユーフラテス川が流れ、名所旧跡もたくさんあります。また、イラクは世界有数のナツメヤシの生産地でもあります。おいしいケバブも食べられますし、ほかにも地元特有の美味しい料理もたくさんあります。外国のメディアでは、イラクは危ない、治安が良くないと報じられているかもしれませんが、そのようなことはありません。ぜひ、日本の皆さんにもイラクを訪れて、古代文明と宗教文化の醍醐味を味わっていただきたいです。

お話をうかがっている間にも、お店には頻繁に地元のお客さんが訪れ、私とは母国語のペルシャ語で、お客さんとはアラビア語で2つの言葉を自由自在に駆使しながら、本当に心から現在のお仕事、そしてイラクで充実した生活を送っていることがうかがえました。イマームホセイン霊廟付近バザール内でアラブ式男性の衣服を販売する商店

この日は、先月ご紹介したカルバラーのこぎれいなホテルに泊まり、明日のイマームホセイン霊廟見学に備えて英気を養うこととしました。

翌朝、6時ごろに起床し、ホテルで他のお客さんに交じって朝食をとりました。

このホテルには、ほかのイラン人巡礼ツアー団体のお客さんも多数宿泊しており、彼らと共同での朝食となりました。パック入りの牛乳やジュース、パンにバター、ジャム、チーズ、ゆで卵などが並べられ、自分で好きなものを選ぶセルフサービス式です。

ソーセージとスクランブルエッグもあり、結構ボリュームのある朝食でした。

さて、朝食を終えてから、いよいよ今回の旅行のもう1つの大きな目的地の1つである、シーア派3代目イマーム・ホセイン霊廟に向かうことになりました。

ここで簡単に、イマーム・ホセイン(アラビア語でフセイン・イブン・アリー、AD626~680)という人物について簡単にご紹介しましょう。この人物は、イスラムの開祖である預言者ムハンマドの孫にあたり、先月のレポートでもご紹介したイスラムの2大宗派・シーア派形成のきっかけとなったイマーム・アリーの次男です。彼はイスラム歴61年にあたる西暦680年10月10日に、カルバラーの地で当時のウマイヤ朝の暴君ヤズィードの軍と戦い、殉教したことで知られています。カルバラで殉教したイスラム教シーア派3代目イマーム・ホセイン(AD626~680)

当時は、イスラム史上初の世襲王朝・ウマイヤ朝が西アジアから北アフリカ、欧州の一部にまで至る広範な地域を治めていました。そうした中、西暦680年にこの王朝の支配者・カリフの地位にヤズィードという人物が、実父ムアーウィヤの死去を受けて就任します。しかし、イマーム・ホセインはヤズィードの就任を認めず、ヤズィードを暴君とみなして彼に対する反乱を起こします。ホセインはこの反乱軍を率いるためにイラクの町クーファに向かいますが、その途中カルバラーにてヤズィード軍に遭遇し、圧倒的に軍備面で有利なヤズィード軍により、あえなく女性や子供、少数の教友らとともに殺害され、非業の殉教を遂げました。この出来事は多くのイスラム教徒を鼓舞し、インスピレーションを与え、後になって圧政者に対する抵抗の象徴、英雄伝と称されるとともに、この出来事にちなんで、カルバラーの地はシーア派最大の聖地の1つとなりました。また、ホセインの殉教した日はイスラム太陰暦モハッラム月10日に当たることから、アラビア語で数字の10を意味するアーシュラ―と呼ばれ、イランやイラクをはじめとするシーア派教徒の多い国では、毎年この日に盛大な追悼行事が実施されています。

それでは、話を元に戻して、実際の霊廟の様子をご紹介してまいりましょう。ここでも、ナジャフ市のイマームアリー霊廟への入場と同様、イマームホセイン霊廟のある区域に入る前に空港でのような綿密な身体チェックが行われます。身体検査スペースは男女別々に分かれて入り、終わって出てくると他の男女の巡礼客と合流します。左向きの矢印で示されているのが男性用の入り口で、右向きの矢印で示され幕が下がっているのは女性用の入り口です。

身体検査が終わって外に出ると、霊廟の境内まで続く大きな屋根付きの道が続いていました。驚いたことに、道の両端には毛布などに包まって夜を明かしたとみられる人々の姿が数多く見られました。陽気もよい時期にあり、雨露もしのげ、そして宗教施設の敷地内ということで安全であること、そして何といってもここに祀られているイスラムの偉人イマーム・ホセインにあやかり、少しでもここの神聖なる雰囲気を吸収したいという思いからでしょうか。霊廟の屋外の通路の片隅で夜を明かしたとみられる巡礼者。イスラムが誇る偉人に少しでもあやかりたい、近づきたい、何かを吸収したいという熱い信仰心の表れではないでしょうか。

とにかく、この霊廟は非常に大きく、イマーム・アリー霊廟と同様に入り口がいくつもあります。このような霊廟を訪れるのは中高年だけではなく、若者も決して少なくありません。

いざ中に入る前に、まずはその外観の壮観さに圧倒されました。ライトブルーを基調とした化粧タイルが綾なす幾何学的デザイン、たくさんのアーチ、広い境内。外界からここだけ切り離されたような、不思議な感覚に見舞われました。

まずは入場前に記念撮影です。ついに、シーア派教徒の憧れの地・イマームホセイン霊廟にやって来ました。

さて、いよいよ霊廟の建物内に足を踏み入れることになりますが、ここもほかのモスク・霊廟と同様に男性用と女性用出入口が分かれています。中に入る際には履物を脱ぐことになっており、女性用の靴の預け場所では係員に靴を渡して、代わりに番号札をもらい、退出の際にこの番号札と引き換えに靴を返してもらう仕組みになっています。霊廟の建物内に入る前に靴を預けに来た女性巡礼者の列。母親に抱かれて来る子供も多く、彼らの信仰心はこのようにして幼少期から、ごく自然な形で培われていくものと思われます

靴を預けて受けとった番号札。「女性用入り口、No.201」と書かれています

一方、男性用の入り口では空いている番号の靴箱に靴を入れて鍵を閉め、鍵を持って中に入り、終わって出てきたときにまた自分の番号の靴箱から靴を出す、という仕組みになっています。男性用の靴箱の並び

さて、他のチャードル姿の女性たちに交じって中に足を踏み入れてみると、ゆるい傾斜になっている長い通路の向こうに大きな広間がありました。外観と同様にライトブルーを基調とした幾何学模様が一面に施され、広間には大きなシャンデリアがいくつもあり、また数多くのアーチが並んでいます。

豪華なシャンデリアの光が細かい鏡細工に反響し、その光が醸し出す美しさは精神性をも伴った、筆舌に尽くしがたいものです。

霊廟内では、大勢の人々がいて相応の話し声や騒めきは耳に入ってくるものの、外の世界とは完全に切り離された、独自の精神的な雰囲気が肌で感じられるようです。巡礼者は思い思いの場所に座り、備え付けのコーランを読んだり、この霊廟に祀られている偉人・イマームホセインとの「心の対話」を交わしているのでしょう。

木造の彫刻の部分に恭しく手を触れ通り過ぎる男性。この偉人に対する畏敬の念が、あちこちに垣間見られました。

その場に居合わせた女性たちに教えてもらい、イマームホセインが葬られているという祠に案内してもらいました。煌々と輝くシャンデリアの下にある、金の屋根のついた、いくつものアーチが外側に施されているのが、その祠だということでした。しかし、この偉人のそばに行きたいと群がる人だかりがあまりに大きく、とてもそばまでは行けません。この距離から確認するのがやっとでした。

霊廟内には、ライトブルーを基調とした化粧タイルが綾なす独自の幾何学模様といくつものアーチが至る所に見られます。

驚いたことに、この霊廟は複数の階があり、エスカレーターまで設けられていました。それだけ、ここに詣でる巡礼客が多いことが伺えます。

大きなシャンデリアのある広間で記念撮影。「ヤー、ホセイン!」

しかも、この霊廟には夜も巡礼者が絶えません。夜を徹して、ここで祈祷をささげる人も多いようです。

前回ご紹介したシーア派の偉人イマーム・アリーと同様に、今回のイマーム・ホセインもシーア派教徒の意識に非常に深く根付いている人物の1人です。このことから、シーア派教徒が多数派を占めるイランでは、「ヤー、ホセイン(おお、ホセインよ!)」という慣用句が様々な場面で使われます。前回ご紹介した慣用句「ヤー、アリー」とともに、イラン人の日常会話や感情表現に使われます。ちなみに、筆者はこれまでに、大きな物音に驚いたとき、腹痛や歯痛などの痛みが辛いときなどに思わず感情表現として「ヤー、ホセイン」という表現が口をついて出てくる場面に遭遇したことがあります。おそらくこれは、イマーム・ホセインが少ない軍勢で敵に立ち向かい負傷し、殉教まで受けた傷の痛みに耐えたことになぞられているものと思われます。

とにかく、この霊廟は昼夜を問わず多くの信者、巡礼者らであふれ、イマーム・ホセインという偉人に思いをはせ肖ろうとする人々の追慕・畏敬の念が随所に見て取れました。ここにやってくる人は老若男女、年齢層も国籍も様々ですが、誰もが例外なく一心不乱に1人の偉人に心を寄せているという一大現象を間近に見ることができました。

20年以上もイランで生活してきた中で、毎年イスラム歴モハッラム月10日のイマームホセインの殉教記念日には、イラン国内での追悼行事を恒例行事として目の当たりにしていました。ですが、今回はその追悼行事の対象となっている人物の霊廟を見学し、またこの人物の殉教の地を実際に訪れることとなり、非常に有意義な体験になったと思います。

さて、シーア派有数の偉人イマーム・ホセインの霊廟とカルバラーの見学を終えて、いよいよ今回の旅行の最終目的地である首都バグダッドに向かうことになります。カルバラーから車で、また1時間ほどかけて北上することになりました。カルバラー市内の2車線道路

カルバラー市街地を出て街道に入りましたが、ここにも民家や商店などが並んでいます。

ちなみに、毎年イマーム・ホセインの殉教記念日や、この偉人の殉教の40日忌アルバインの行事(アラビア語で数字の40日の意、日本で言う四十九日に当たる)の際には、大勢の巡礼者が集団となってこの街道を徒歩で進みカルバラーまで向かい、街道の沿線上に住む住人や商店の店員などが、道行く巡礼者に食事や飲み物などを無料で提供するそうです。

イラクもイランと同様にナツメヤシの産地であり、特にバグダッドに到着するまでナツメヤシの木立や樹林が数多く見られました。

ところで、今回のイラク巡礼記は当初、2回を予定しておりましたが、カルバラー編が予想より長くなりましたため、最終目的地のバグダッド周遊編は3回目として来月お伝えしたいと思います。バグダッドには、歴史の教科書に必ず出てくるチグリス川が流れており、この点も併せてじっくりお伝えする予定です。どうぞ、お楽しみに。

 

 

 

ABOUT ME
yamaguchi
IRIBイランイスラム共和国国際日本語通信でニュース翻訳のほか、イランのことわざを週2回紹介しています。20年以上にわたりイラン滞在の経験があり、2016年からはイラン人の夫とともにテヘランから西に150kmほど離れたガズヴィーン州に滞在していました。現在は、イランと日本を行き来しながら、日本の皆様に普通のメディアには出てこないようなイランのホットな情報をお届けしています。