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テヘラン市の知られざる古代都市、シャフレレイを訪ねて(1)

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イランの首都テヘランは、多数の人口を抱える大都会であり、複数の市や郡が集まってテヘラン州を形成しています。中でも、テヘラン市はイランの政治、経済の中心地であり、さらには博物館や文化施設なども数多く存在しています。そのテヘラン市中心部から南に十数キロ離れたところに、シャフレレイという地区があります。この地区は、レイとも呼ばれ、同じテヘラン市内にありながら、テヘラン市中心部とは違い、静かな雰囲気に包まれているとともに、意外な名所旧跡が見られます。この度はテヘラン市内にあるこの知られざる名所・レイの町をご案内してまいります。

 

レイの町は、イランそして世界で最も古い町の1つとされ、この町には紀元前3000年ごろから人が住んでいたとされています。アケメネス朝時代の碑文や、ギリシャ語の資料文献によりますと、この町は長い歴史を通してレガー、レゲ、アラシュキーエ、レイシャフルなど色々な名称で親しまれてきました。また、レイという言葉は元々「統治・支配」を意味し、この町に住む人々はラーズィーと呼ばれています。この町に生まれた著名人には、イランが誇る医学者、哲学者で、アルコールを発見したことでも有名なザカリヤー・ラーズィーが挙げられます。また、8世紀から13世紀に中東を統治したイスラム王朝であるアッバース朝の支配者の1人、ハールーン・アッラシードも、この町の出身です。ところで、7世紀にイランにイスラム教が伝来する前には、レイの町はゾロアスター教の中心地として栄え、現在のバチカン市国に相当する、ゾロアスター教の総本山があったとされています。ちなみに、ゾロアスター教の聖典アヴェスターでは、レイの町は世界で13番目の古代都市とされている、ということです。さらに、この町はアルサケス朝時代の首都の1つだったとされ、またイスラム伝来後の10世紀から11世紀にも、マルダヴィジ・ズィヤーリーが創設したズィヤーリー朝が栄えました。しかしその後、モンゴル軍やティムール朝の襲撃を受け、この町は廃墟となりました。現在も、レイの町の近郊には昔の廃墟が残されています。

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さて、レイの町に到着して先ず見学したのは、この町の高台にある城壁でした。この城壁は、今から約6000年前、即ちメディア人の時代に遡るとされています。アルサケス朝時代には、この城壁は防衛用に使用され、当時は周囲に堀が存在したということです。しかし、その後の震災の影響などで破壊され、現在は450メートルほどの長さの廃墟が残るのみとなっています。からりと晴れ上がった青空のもとに、ベージュ色の城砦が聳え立っている様子から、当時栄えた王朝時代の雰囲気をうかがい知ることが出来ました。ところで、この城壁を見学していますと、城壁の向こう側から、楽しそうにはしゃぐ人々の声が聞こえてきます。そう、この城壁の向こう側の一部は深く掘り下げられていて、アリーの泉と呼ばれる、レイの町でも有数の行楽地となっているのです。人々の楽しそうな歓声につられて、私もこの泉へと回ってみることにしました。

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アリーの泉は、ペルシャ語でチェシュメ・アリーと呼ばれ、その歴史は8000年前に遡るということです。当時、この泉の傍らにある丘に初めて人々がやって来て定住し始めたとされ、アルサケス朝時代やサーサーン朝時代には、この泉はスーレナーと呼ばれていたということです。その後、イスラム時代に入ってから、イスラム教シーア派初代イマーム・アリーに因んで、地元の住民からアリーの泉と呼ばれるようになりました。伝えられるところでは、昔には、テヘランの人々はこの泉の水で絨毯を洗っていたということですが、それはこの泉の水で絨毯を洗うと、絨毯がよりきれいに洗浄され、輝きを増すと信じられていたことによるものです。ちなみに、この泉の水源はテヘラン北東部30キロにある町ジャージルード、或いはテヘラン市北部のゲイタリーエ地区だと言われています。真夏の強い日差しの中、家族連れをはじめとする多くの人々が、水遊びに興じていました。泉の水に浸かり、泳いでいる人、水際に寝そべっている人もいれば、水鉄砲で遊んでいる子どもたち、そして彼らを見守る大人たちが、楽しそうに歓声を上げています。アリーの泉は、テヘランから最も近い行楽地の1つともいえるでしょう。

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そして、この泉を語る上で欠かせないのは、この泉の背景となっている岩肌に大きな彫刻が施されていることです。岩の表面に彫刻されているのは、イランのガージャール朝の王ファタフ・アリーシャーを初めとする17名の人物です。ファタフ・アリーシャーは当時、行楽を目的にしばしばこの泉を訪れたとされており、今から180年ほど前にこの泉の岩肌に、自分に似せた王様や王族たちの姿を彫刻するよう命じたことから、ここにこのレリーフが作られたということです。さらに、この泉の周辺の丘からは、紀元前数千年前のものと推定される、動物や人の形が描かれた陶器などが出土しており、それらの一部は現在、フランス・パリのルーブル美術館に収蔵されています。

 

また、今から80年ほど前にはアメリカのボストン美術館とフィラデルフィア美術館による調査で、エリック・シュミットが率いる調査隊が、600平方メートルにわたるこの泉の近辺で発掘調査を行っています。

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さて、最初にもお伝えしましたように、レイの町はかつてゾロアスター教の聖地とされていました。そのため、この町には拝火教寺院の跡が存在します。この拝火教寺院は、イランが拝火教を国の宗教としていたサーサーン朝時代、即ちおよそ1800年前のものとされ、またミールという名前の丘にあることから、ミールの丘とも呼ばれています。現在は、2つのアーチと、その中央を通る高さの低い通り道が残っているのみとなっています。この2つのアーチの高さはおよそ18メートル、幅がおよそ25メートルで、モルタル、日干し煉瓦、泥土、そして石が使われています。この寺院の跡に周辺には、アシがまばらに生えているのが見られますが、これは以前にこの周辺に湖が存在していたことの名残だということです。又、1913年には、フランスの考古学者ジャック・ドモルガンが、この拝火教寺院とその周辺の修理作業を行っています。

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次回も、シャフレレイにまだまだ沢山存在する、名所旧跡の数々とこれにまつわるエピソードをお届けする予定です。どうぞ、お楽しみに。