*テヘラン便りで取り上げた地域の旅行手配も承ります*
イランと日本を初めとする北半球は、現在冬ですが、そのような中でもイラン南部は、快適な気候に恵まれ、またユネスコの世界遺産に登録されている名所旧跡が数多くあります。今回は、イラン南部フーゼスターン州にある世界遺産と、ペルシャ湾を訪ねてまいりました。今回から2回にわたり、その最新レポートをお届けいたします。
フーゼスターン州はペルシャ湾に面し、バンダル・イマームホメイニーを初めとする港町がいくつもあります。また、国境河川となるアルヴァンド川を挟んで、西はイラクに接しています。今回は、まず飛行機でテヘランを出発し、フーゼスターン州の州都アフワーズに向かいました。テヘランから飛行機で1時間ほどのこの町の空港に降り立ってみると、途端に心地良い涼しさを感じました。冬の最中のテヘランとは違い、ここでは春の陽気です。それまで着ていた厚手のコートは必要ないほどでした。町のあちらこちらにヤシの木が生えており、さすがにここは南国です。アフワーズ市内には、イラン最大の河川であるカールーン川が流れており、デズ川、そしてキャルへ川と共にアルヴァンド川と合流してペルシャ湾に注いでいます。
フーゼスターン州では、その気候風土から、ゴマ、サトウキビ、ナツメヤシ、オレンジの栽培が盛んです。但し、これは内陸部での話で、ペルシャ湾岸に近くなるほど、土壌に塩分が多く含まれるようになることから、緑は少なくなってきます。また、ゴマやナツメヤシから抽出される油の生産も盛んです。そして、ご存知のようにフーゼスターン州はイラン有数の油田地帯であり、石油を採掘するプラントや石油化学工場があちらこちらに見られます。アフワーズ市内を車で走っていた際にも、石油プラントで石油を採掘する時に発生するガスが燃やされているところが目に付きました。イラクとの国境が近いことから、イラン・イラク戦争では甚大な被害を受けたということですが、今ではすっかり復興しています。
今回、最初に訪れたのは、アフワーズから北に110キロほど離れたシューシュの遺跡でした。シューシュとは、古代のペルシャ語で素晴らしいという意味を表します。この遺跡は、日本ではスーサとして知られており、世界初の法律の条文が楔形文字で刻まれた、ハンムラビ法典の碑文が出土したところでもあります。「目には目を、歯には歯を」で有名な復讐法が刻まれたこの碑文は1902年、フランスの調査隊により発見されました。この遺跡の歴史は、およそ紀元前4250年にさかのぼります。このころ、シューシュの東方に住む民族がここにやって来て、神を崇めるため日干し煉瓦で大きな祭壇を造ったのが、この町の始まりといわれています。当初はこうして、宗教の町として建設されたシューシュでしたが、その後経済・行政活動に関連する建物も加えられていきます。最終的にこの町は4つの部分に分けられ、それぞれが小さな丘の上に建設されました。この中でも最も高い丘に造られたセクションは、ギリシャ語でアクロポリスと呼ばれています。シューシュの町はさらに、紀元前13世紀のエラム王朝、紀元前後のアケメネス朝、その後のササン朝時代にわたって栄え、特にアケメネス朝時代には、ペルセポリスと並ぶ中心都市となりました。ペルセポリスが、主に外国からの朝貢使節らを接待し、様々な儀式を執り行う場所であったのに対し、このシューシュは行政の中心地であったということです。シューシュは、紀元前640年ごろに一度、アッシリア帝国のアッシュール・バニパルによって焼き払われてしまいました。しかし、紀元前521年のアケメネス朝時代に、ダレイオス1世がここを冬の都に定めたことにより、急速に復興します。それから190年後に、マケドニア王朝のアレクサンダー大王により破壊されたことから、ペルシア人たちは都としてもっと相応しい場所を求めて移動していきます。その町こそはまさに、古代ペルシャ語で、より素晴らしい、という意味を表すシューシュタルの町だったのです。シューシュタルについては、後ほど詳しくお話することにいたしましょう。
シューシュの遺跡を見学する前に、まずはここに併設されている博物館を見学しました。この博物館には、今は廃墟となったシューシュの遺跡から出土した、今から3000年以上前ののものとされる土器や、互いに背を向け合って跪いている2匹の牛をかたどった石製の柱頭など、様々な発掘物が展示されています。この博物館の関係者の方のお話では、シューシュの町はペルセポリスよりも7年早く、アケメネス朝の都の1つとなり、その歴史の長さからしても世界遺産に登録される価値があるものの、遺跡の保存状態がそれほど良好でないことから、まだユネスコへの登録を果たしていないとのことでした。しかし、一刻も早くこの遺跡がユネスコに登録され、イランから新たに世界遺産が誕生することを望んでいる、としみじみと語っておられました。また、博物館を出てすぐのところには、城砦のような建物があり、これはフランス考古学調査隊によって建てられたもので、この建物がある高台は先にお話したアクロポリスとして,アケメネス朝時代には城砦が築かれていたということです。
さて、いよいよ実際の遺跡に足を運んでみました。今では、柱の基礎部分と、馬をかたどったと思われる彫像の一部分だけが残っていました。ここには、紀元前521年から516年ごろにかけて、ダレイオス1世の命により謁見の間・アパダナ宮殿が造られたとされています。36本の柱の跡を取り巻くように、その三方をさらに12本ずつの柱の集まりが取り巻いており、これらの柱の高さは22メートルと推定されています。この宮殿にはさらに、いくつかの広間やハレム、召使の部屋などがあったということです。馬の石造は損傷が激しく、顔の部分が欠けていましたが、首輪と思われる部分に花模様がいくつも掘り込まれています。これは、アフワーズ市内でよく目にするシンボルマークの原型であり、ハスの花をかたどったものだということでした。なお、ここに残されている柱や石像の跡などから、この宮殿は非常に壮麗で、しかもペルセポリスとほぼ同様の様式で造られたと考えられています。長い歳月が過ぎ去り、今でこそ廃墟となってしまったものの、かつてこの地に栄えたエラム王国、そしてペルシャ帝国の面影を感じ取ることができました。
シューシュの遺跡の近辺には、ユダヤ教の預言者ダニエルの聖廟もありました。2本のミナレットや、青系統の化粧タイル、いくつものアーチがあり、一見するとイスラムのモスクと変わりないように思われますが、高く聳え立つ乳白色の円錐形の塔が特徴的です。また、塔の表面には独特の凹凸があり、相当に目立ちます。この建物自体は1870年に建てられ、中には預言者ダニエルの棺が納められています。預言者ダニエルは、青年期に他のユダヤ教徒たちと共に捕虜として、バビロンに連れてこられましたが、紀元前539年にアケメネス朝ペルシャのキュロス大王がバビロンを解放したことにより釈放され、その後シューシュの町に定住しました。彼は、紀元前513年ごろシューシュで没しましたが、イランのユダヤ教徒を初め、イスラム教徒やそれ以外の宗教の信者たちからも、非常に尊敬されていたということです。なお、イスラムの預言者モハンマドは、預言者ダニエルの墓に詣でることは、イスラムの預言者に敬意を払うことに等しいと宣言したといわれています。
今回の旅で注目していたもう1つの点は、この地域の郷土料理でした。ペルシャ湾に面している地域とあって、テヘランを初めとする内陸の都市よりは、魚を使った料理が多く出てきます。今回食べたのは、ゲリエマーヒーと呼ばれるメニューで、ペルシャ湾で水揚げされるタイやサワラなどの魚と、細かく刻んだ野菜を、にんにくとトマトペーストで煮込んだ料理でした。味付けの特徴として気づいたのは、全体的に酸味と辛味が効いていたということです。こうした味付けにはレモン汁や唐辛子、或いは胡椒がよく使われるとのことでした。もちろん、イラン全土で定番となっているメニューも出てきますが、いずれも標準的な味付けよりは酸味と辛味が効いていることが特徴です。この地域での魚の調理方法としては、煮込みのほか、キャバーブやムニエルなどが主流だということです。
次回も、この続きをお届けいたします。どうぞお楽しみに。